俺はなんばんぼし

釣具屋と不動産屋の

第ιΖ回「2021年3月25日 ダイバーシティ/功罪キャッチ」

ダイバーシティ、なんて言葉を殊更協調している、その時点でその人なり組織なりは「ダイバーシティなんてぶっちゃけ知ったことじゃねえよ、でもこれを謳わないとわりいんだよ、都合が」という風な意思表示をしていると思うのは自分だけだろうか。本当にダイバーシティが身についている人や組織であれば、別にこれを意識しようとかお題目にしようとか言わないと思うのだが。言うとかえってそうではないことが強調されるので、やめた方がいいのにな。嗚呼。

というのはまあ会社の話だけど、絵にかいたモチというか、本当にただの口パクになっているのが見ていられないね。も、いたたまれない。

モチといえば過日、家の者と話していたら、インディアンの要素が出てきた。というとわかりにくいが、とにかくインディアンが連想されるような話題になったのだ。そんで、自分は家の者を笑わせたい、家の者に笑ってほしいと思い、「インディアン、モチつかない」とつぶやいた。有名な一言「インディアン、嘘つかない」から派生したインスタントギャグだ。いや、ギャグというかただの駄目な洒落、いわゆるところの駄洒落で、山田詠美に聞かれたら失望されるだろう。しかし、中島らものなにかの本に書いてあったこの一言が、自分は好きなのだ。したところ。
家の者はちいともすんとも笑わなかった。だけでなく、この人は何を言っているのだろう、といった顔で自分を見てきた。江戸に生まれ育ったいなせな人であれば、おまいさんあにいってやがるんでえ、と言うかもしれない。とにかく、彼女には「インディアン、モチつかない」が通用しないのだった。その後ヒアリング調査をした結果、原型の「インディアン、嘘つかない」をそも知らないらしかった。たぶん嘘ではないと思う。この一言を知らない人に会ったのは初めてであるー

しかし、考えてみれば自分もあまり詳しく知っているとは言えない。なぜインディアン(現代ではネイティブアメリカンと呼ぶべきだろうが便宜上)は嘘をつかないのか。
なので由来を調べてみましたことには、この言葉は「インディアン、嘘つかない」だけでは成り立たないそうな。「白人、嘘つく。インディアン、嘘つかない。」という形で初めて意味が通るようになっていたらしい。都合よくキャッチーな箇所だけ切り取られた感じがして、あまり使わない方がいい言葉のような気が、今ではしている。

よく耳にする昔のフレーズで、前後が切り取られていて当時の意味と現代で流布されている意味が違うものが他にもあったような気がするが、なにだったか思い出せぬ。
おそらく世代をまたいだ伝言ゲームになっていて、まあしょうがないのだろうが、言葉とその意味は、消費期限が短く、わりあい脆いものなんだろうね。そう思うと、名言集だの格言集だのといった類の書物は、脳みそを鈍麻させるドラッグと同じだと思う。やわこい、キャッチーなパートしかないからね、爽快に違いない。注意が肝要である。

 

文責:不動産屋

第Βο回「2021年3月24日 ふぎゃあと駆ける猫よ/我想要ボヘミアン」

むにゃむにゃ言いながら猫が近づいてきたので抱き上げてやると、ふぎゃあああ、と啼いていずこへ駆けて行ってしまった。フレンドリーに寄ってきたから抱き上げたというのに途端、ふぎゃあ、などと非難の声を荒げて被害者ぶる、そういうのはどうかと私なんかは思うが君はどう思うか。と猫に問いかけても時すでに遅い、猫はとうに駆けて闇に消えている。カナシー。
自分はお酒を飲んでいて、それで呼気がウイスキーくさく、ヤンなってしまったのだろう。しかししょうがないじゃないか、お酒を飲むのは。そんなに嫌わなくてもいいじゃないか、お酒を飲んでいたとしても。

 

そんなことはどうでもよく、つくづく思うのは頭髪を切るのがめんどくせえなあということで、まあ正しくは自分で自分の髪を切っているわけではなく、美容師? 理容師? どっちか知らないのは申し訳ないがそういう人に切ってもらっているので事実にてらして書き直すと、頭髪を切ってもらうのはめんどくせえなあ、ということ、これをつくづく思っている。
まず、移動がめんどくせえのである。自家がカットハウス・美容院・理容院・床屋などであれば、それなりの設備も整っているし、プロもいる。問題ない。しかし自家はただのパンピーが暮らしているだけで、設備もなくプロもいない。だから往来に出てそういう場所に行かないといけないのだが、これがうーん、めんどくさいのね。第一、自分は外出に向いていない。日の光を浴びず、他人とも触れ合わずに、たとえば深海の海藻のような存在でありたい、と思う性向なので、外に出てもびくびくしているばかりで、どっと疲れるのである。だいたい、東京に来て2年になるが、いまだに街に出るとおのぼりのようにあちこちを物珍しそうにキョロキョロしてしまう。情けのない話。
また、どういう風に注文すれば自分の希望通りの髪型にしてもらえるのか、それが皆目見当つかないしね。一応、こういう風にしてほしい、ちう希望はあって毎回それを伝えようと頑張るのだが、自分の伝え方が悪いのか、「ああ、これよこれ」と合点がいったためしがない。毎度、「こんな感じになりましたがいかが?」と聞かれて、もうどうしようもないので、「はい、大丈夫です」と問題なさげに答える。この、問題なさげ、を繕っている自分を鏡で見ている時が味噌である。何が大丈夫じゃ、ぼけ、そんなんだからおのれは出世も覚束ないのだ、と自分に向かって思う。自分と目が合わせられぬ。
ひょっとしてこれはあれか、「理想が高くて結婚できない女」みたいなことを耳にすることがあるが、ちょうどそういう感じ、自分の目指す髪型があまりにも理想的に過ぎて現実の自身に即していないのだろうか。ちなみに、「理想が高くて結婚できない男」というのは聞いたことがない気がするが、これは女性差別にあたるだろうか。とにかく、やっと床屋についても、十分に注文することができない。カナシーことだ。

一時はもう髪が生えないようにしようかな、と思ったこともあった。永久脱毛である。生えてこなければ切ることもなくなり、髪型を整える必要もなくなり、出かけることもなくなり、「大丈夫です」と嘘をつかなくてもよくなり、金銭が浮き、良いことしか残らないような気がするのは自分だけか。ウィッグを各種そろえて、その日の気分で瞬時に髪型を変えることもできる。髪型をキメるのとはまた別のファッショナブルな面、あそび感覚があるしね。

頭髪に関してはサラリー・マンを辞退したらやりたいことがある。まず頭髪をすべて剃り、それからはもう髪を切らない。おそらく70年代のヒッピーのようになるだろうが、毛髪の伸びる限界が個々人で設定されているらしいので、いつか止まる。そうしたらもう自分の勝ちである。そして丸サングラスの奥でニカと笑って、ピースを決めたい。口で「ピース」と言いながら。と思うのは自分だけか。髪に思い悩むこと、気を遣うことがなくなってめちゃいいやんけ、と思うけどね自分の場合は。

 

文責:七三の不動産屋