俺はなんばんぼし

釣具屋と不動産屋の

第10回「犬(エッセー)」

犬。犬との関わりは正直言って深くない。1年間に2、3回触るかどうかだ。とすると、現在私は28歳なので、多く見積もって28年×3回の計84回犬に触れたことがあるという程度である。これは多いのか少ないのかさっぱり不明である。犬を飼育している人物からすると卒倒するような少なさであろうが、犬アレルギーの人はそれこそ卒倒してしまう。ただ、私の犬に対する感情は悪いものではない。むしろ、私に子供が出来た暁には飼育したいと思うほどである。いや、ぜひ犬とともに生活を送りたい。犬を飼う、という事は私の夢である。

 

 私が犬との関係が薄い理由としては、もちろん幼少期に犬を飼育していなかったからに他ならない。幼少期に犬が欲しい、と思ったことはなかった。今でこそ犬のお腹をなでなでして癒されたいし、逆にクーンクーンと犬に甘えて戸惑わせてやりたいとも思う。しかしやはり当時は両親にねだったこともなかった。そういえばなんでだろうと気になったので、これから回顧の旅に出ようと思う。現在の自分が過去の自分を振り返る。A.アインシュタインが100年余り前に発表した一般相対性理論によると、光速に近い速度で宇宙に行けば未来に行けるという。光速に近づけば近づくほど地球に比べて時間が経つのが遅くなるかららしい。2015年にロシアの宇宙飛行士は国際宇宙ステーションから44分の1秒未来の地球に帰って来たらしい。実績もある。ただ、実用化となるとかなり先になりそうだ。あるいは、現在に帰ってくることが出来ない未来に行くのははなはだ恐ろしい。ドラえもんだとかBack to the Future に出てくるようなタイムトラベルならばしてみたい。一方過去に戻るタイムマシーンならば簡単に乗ることが出来るの。非常にお手軽かつ無料。やりすぎは精神にちょっぴり毒な気がするのでほどほどな感じが良いでしょう。

 

 私は東京都の町田市という場所で育った。町田市と言えば神奈川県との県境にある。大阪に住んでいると、私は標準語を話すので、出身はどこか?という話によくなる。東京都です、と答えると皆一様にシチ―ボーイじゃん、と驚いた顔をする。何故そんなに驚くのかは一切不明であるのだが、もしかしたら私の顔が典型的なモンゴロイド顔だからかもしれない。意地の悪い人は必ずいるもので、東京のどこか、と突っ込んだ質問をしてくる。町田市デス、と答えると、あ、23区じゃないじゃん。じゃあ東京じゃないね、てか、神奈川県じゃん!と安心したように得意満面馬鹿にしてくる。聞くところによると、23区以外は東京ではない、という教義の宗教団体が存在するらしい。彼らは決まって23区外であることが分かると攻撃をしてくる。まったくもって知った事ではないのだが、確かに両親がお金持ちか否かが簡単にわかるからある種仕方がない事なのかもしれない。

ところでこの町田市は歴史を紐解くと明治時代までは神奈川県だったらしく、彼らの主張はある程度正しいと認めざるを得ない。しかし、裏を返せば東京都と神奈川県で町田を奪い合っていると言える。日本有数の商業自治体である2都県が、である。時折、公園や民家でバラバラ殺人事件などの残虐な事件が起きるというチャーミーな一面を持っているが、それほどの魅力が町田市にあるのだ。残虐な事件は決まって町田市か尼崎市で起こる。

 

町田駅周辺は非常に発達しており、繁華街といっても過言ではないだろう。日本一大きいブックオフがあるくらいだ。しかし、駅周辺を離れると、いたって平凡な住宅地が広がっている。多摩ニュータウン計画(詳細は『平成狸合戦ぽんぽこ高畑勲、1994年)』を参照のこと)の区画からは外れた経緯があるらしいが、東京有数のベットタウンなのである。私の実家がある場所も、商業施設と言えば近所の「だるまや」という駄菓子屋さんくらいなもので、小学校時代の生活圏内にはコンビニすらなかった。あるのは一戸建てか、畑か、田んぼか、といった具合だ。マンションやアパートは少なく、一戸建てが非常に多い地域だったのだ。だからだろう、犬を飼育している家庭が多かった。さらに外飼の家庭が多かったように思う。なので通学路に面した一戸建ての庭には、リードにつながれた犬をよく見ていた。ここで、私が犬を欲しがらなかった第一の要因があるのではないかと思う。というのも、この外飼いでリードにつながれた犬が大層不憫に思われたのだ。犬小屋があるとはいえ、雨の日も風の日も外にしかおれず、なんともくたびれて見えた。私が興味を持って近づいたとしても、ちらりと見て、いや、私のことなど見てもなかったかもしれない。なんとも淀んだ、世界は退屈極まれり、といった目で世界を傍観していた。当時NHK教育で『フルハウス』というコメディーホームドラマゴールデンレトリーバーと思われる非常に人懐っこい犬が出てきていた。それを見ていた私は犬というものは、へえ、なんでしょう、ご主人、といった感じで近づいてくることを期待していたのだ。しかし現実には縄でつながれた犬生(いぬせい)に辟易とした、何かを悟ったような犬がいるだけだったのだ。現実に見た犬たちはなんともいえない悲壮感が漂っていた。

 

 また、もう一つ要因があるとすれば、これは私の父親の話になるのであるが、彼は今でいうクレーマーなのである。お店に行った際に店員に横柄な態度を取り何かと文句を言う、あるいはテレビで誤植があった場合に電話で文句を言う、といった具合で、典型的な団塊の世代的な性格なのであった。

犬に関してもそのクレーマー的性格を存分に発揮した出来事があった。ある日、家のお隣の家族が犬を飼いだしたのだ。スピッツかチワワか記憶は定かではないが、そういったかわいい系の犬である事は確かだ。小型犬と言えば室内で飼うと相場は決まっていると思うが、お隣さんは外で飼っていた。ご存知の通り、小型犬の声色は高い。そしてよく吠える。私はここにいるのですよ、と世界に主張しているかのようであった。お察しのとおりであるが、わが父親はこの小型犬の鳴き声に対して不満を抱き始めた。確かに子供ながらよく鳴くなあ、なんて思っていたが、父親のストレス度数は徐々に上がっていたようだ。お隣さんのお家に小さな家族が参加して3か月くらいが経った日の事。小型犬は明け方にとりつかれたように鳴いていたようだ。私なんかは全く気が付かず、すやすやと眠っていたその時、父親の怒号で目が覚めた。

「朝からキャンキャンキャンキャンうるせえ!そいつを家の中に入れろ!!」

まさに青天の霹靂。家族騒然。母蒼白。一体何が起きたのかは一瞬で理解できた。父親のボルテージはある春の朝に最高潮を迎え、とうとう炸裂したのだ。 怒声は町田市全体に響きわたり、鳥たちはいっせいに空に飛び立ったという。そして、犬は家の中に連れ去られていった。徐々に小さくなっていく鳴き声はまるでドップラー効果の様であった。それ以来、外で小型犬を見かけることはなくなった。ここで父親の肩を持つ人もいるだろう。明け方にそんなに鳴いていたら仕方がないのではないかと。あなたは私の父親を知らないからそんなことが言えるのだ。安心してほしい。その必要は一切ない。朝食の時の母の顔は今でも忘れることが出来ない。ああ、母よ。心中お察しします。

この出来事でよかった点と言えば、小型犬が家の中に安住出来たことだろうか。あいつにとってみればそれを望んでいて、父親がきっかけを与えた、という見方もできなくはない。いや、出来ないか。

 

そんなこんなで、幼少期に犬を飼いたいという衝動に見舞われたことはなかったのだ。これは教育のさなかに育まれた私の人生観なのである。だから、私は犬を飼いたい。

ちなみに猫に関しては母が猫嫌いであったため、猫を飼いたいという事は許されなかった。なんでも幼少期に顔面を噛みつかれたかららしい。これは致し方ない。

 

最後に。犬。犬と言えば笑う犬。ミル姉といえば、私くらいの年代はドンピシャであろう。内村光良は本当に面白い。憑依系芸人として横に並ぶものはいないだろう。特に、最近笑ってないな、という人は、以下の「研修のメリークリスマス」という動画を見ることをお勧めする。悩みが吹き飛ぶことを保証しましょう。

 

 https://www.youtube.com/watch?v=1G-jB6MEVVM

 

 今日はここまでとさせていただく。折を見てタイムマシーンに乗ろうと思うので心してほしい。

次回のお題は「マザーコンプレックス」にしましょう。

それではまた。

 

文責おがさわら(大阪、28歳)