俺はなんばんぼし

釣具屋と不動産屋の

第31回「夕飯と、コアラはなぜコアラが木にしがみつくかを考えないであろうという事」

ふぁーらー、ふぁーらー、ふぁーらー。
救急車がすっ飛んでいく。最近、この音を聞くことが増えた気がする。安穏とできない時代になったものだ。別に前の時代も安らかではなかったが。やれん。

というのは日常の茶飯の事。張り切って「夕飯」について書こうと思う。理由としては、前のオガサワラ回で「貴公は夕飯について書くべし」と言われたから。言われたからやる、言われたから書く。これがゆとり初期世代の典型的スタイルだ。やるぜ。
でもその前に、生存報告書いわゆる日記を書くわ。今書いておかないと絶対に忘れてサボタージュの罪を重ねることになる。

書いてきた。それでは「夕食」について。

突然だが、今や腐りかけの鮒みたいな目付きのサラリー・マンになってしまった自分だが、そんな腐敗した鮒にも青春の汗光る高校時代があり、その頃は友人もそれなりにいたものだった。
エトーというアウストラロピテクスに似た友人が「こないださぁ・・」と話しかけてきたものである。こないだ、と言っているから数日前から数週間前の話をしているのかと思って聞いていると、いまいち合点がいかない。そのままフンフン言って聞いていると、どうやらエトーは5年前の話をしているのだった。正月の話だった。5年前の正月の話を、「こないださぁ・・」と言って始める奴があるだろうか。。。

このように、こないだ、とか昔、といった言葉は十人十色。各人による幅が存在することを肝に銘じておかなくてはならぬ。
というのはどうでもよいが、とにかく昔、西暦にして2019年のことだ、まだ世間の人々が我も吾もとマスクを着けていなかった時代のある日の夜、自分は会社の人と連れだって大衆居酒屋にいた。我々はひたすらに不幸自慢に花を咲かせた。不幸自慢ほど庶民を労り、救い、楽しませるものはないからだ。哀しいね、侘しいね。テーマは「自分がいかなる貧窮を味わってきたか」である。

なんとなく自分の番が回ってきたので、大学生の頃、煙草代がなく他人の吸った吸い殻を集めてニコチンを摂取していた話をした。他人のシケモクは吸えるに値するものでもひと吸い残っているかどうかが相場で、時たま、2,3吸いできる極上品が見つかった時はその日の運を使い果たしたような気持ちになる。一本分を吸うには7,8本を集めなくてはならないのだ。。。
そんな話をしたところ、タバヤシという先輩が「お前、それはやばいよ。やばい人じゃん」と目を剥いた。あらま。これはやばいのか、異常なのか、はっきり言って恥ずかしい。と思ってモジモジと顔面を渋くしていると、その横のトードー先輩が口を開いた。「いや、割とフツーじゃないですか。自分もやってましたよ、シケモク集め」と助け舟を出してくれるではありませんか。続いてその場の紅一点であるナカヅカ女史も、「私もやってましたー」と往年のシブヤ109にいたギャルみたいな声で。

タバヤシさんが「信じられんよ、なにもかも」みたいなことを言って意気を消沈させていると、女史が「もしかして合間さんて、B型ですかー」と聞いてきた。そう、Bなのだ。自分の血は。血の型が。
血液型性格判断は日本と韓国でしか流布していないらしいが、ここは日本なので流布している、そんで、シケモク吸いのようなデカダンスを実行するのはB型に決まっている、と女史は踏んだのであって、調査の結果、トードーさんと女史もB型であって、シケモクを吸わないタバヤシさんのみA型ということが判明した。
以来、血液がBな奴らはなりふり構わずに他人の吸い殻で命をつなぐ、というのが我々の間の定説になっている。

さらにB型談議は続いた。
女史いわく、「B型は狂ったように同じ物を食べ続ける時期がある」とのこと。B型は煙草にしろ食べ物にしろ、一途なのだ。女史はそう言った。そうなのだ、確かに同じ物しか食べない時期がある。これについてもタバヤシさんとB型連合は袂を分かち、各々が依存してきた食べ物について熱心に語り合ったのだった。東京では鶏は鳴かぬ、烏が払暁の東雲にふぁーふぁー鳴き叫ぶ頃、3時間後の始業に備えて各々帰途についた。わずか1年前のことなのに、遠い昔のことに思えるのは、なぜかしら。


ようやく本題に入る。
女史が言うように、B型は狂ったように同じ物を食べ続ける。だから正味、朝昼晩など関係ない。空腹を感じたらソレを食べるだけで、時間帯による名称の区別などないのだ。せっかく「夕飯」というテーマを与えてくれたオガサワラ氏には悪い気もするのだが。そのくらい、その時期は一定の食べ物に体全体で心酔している。恋している、といっても過言ではない。

ちなみに、この恋は誰か他人と生活を共にしているとできないものだ。家族や同僚がいれば同じ釜の飯を食うだろう。組織の調和を尊ぶと、自分一人の独断で食べ物を選ぶことができんのだ。そんで「ええっ、今日の晩飯カレーかよぉ、昼もカレー食っちゃったよ、俺、カレー、なあ、俺」などと喚く御仁が出てくる。わずか2回続くことにすら飽きを感じる浮気な御仁らは、毎食で相手を変えないと食生活のオルガスムを味わうことができない。
もちろん、大方の家庭で台所を担当しているであろう主婦らの中には、「そんなひとつのものばかり食べていたら栄養が偏るじゃないの、だからお母さん毎晩違うもの作ってんの」などと言う者もあるだろうが、確かにそれは栄養学的な視点でいえば正しい。そして家計の問題もあるだろう、今日は豚肉が安くて明日は卵が安いのetc.....無限に続くようにも思える日々の献立作りに脳みそを絞るマダムらには脱帽する。帽を脱ぐ。しかしですね、お母さん方、それではB型に宿る一途な想いが成就されんのですよ。僕たちはある食べ物に恋をしているのだから。栄養の偏重は問題ではないのです。草野マサムネが言っているでしょう、「恋は迷わずに飲む不幸の薬」と。。。。

そういうわけで、家族などと生活を共にしていると実際の恋愛もしにくいように(今はもうないだろうが、電話に相手の親が出るなど)、食べ物についての恋着もまた難しく、独り身となった瞬間にこの恋の花は咲き乱れる。文字通り、乱れる。誰かまうことなく。

自分の恋愛遍歴をここで披露すると、
・焼きそば
・目玉焼きを乗せた白米
・ピーナツバターホットサンド(ソントン)
・素うどん(京風)
ナポリタン
・そば(かけ、もり)
となる。

自由恋愛は2016年春に始まり、2020年5月18日現在に至るまで続いている。5度ほど相手が変わったことになるが、おおよそ半年から1年間は同じ相手と毎日3度の交際を続けてきた。
もちろん、昼に会社の人と連れだって食べに行く時は「私は今、焼きそばしか食べられないのです。なぜなら恋しているから」などとは言えないので鯵フライ定食かなんかを食べるようにしていた。それでも、この店では鯵フライ定食、あの店では琉球そばなどと特定のものに限っていた。

恋の終わりは突然くる。
下降も漸減もマンネリもなく、ぷっつりと切れた糸のように両者の関係は終わる。別れの言葉もない。潮時すら感じられない。何が起こったのか自分でもよく分からないままに、気付けば次の相手であるピーナツバターホットサンドを手にしているのだ。
一方、この始まりは夏の日の夕立のように予感がある。横からもらって調理器具が増えることや、季節の変わり目が予感させるのだ。

今は世相柄、明けても暮れてもアパートにいることが相まって、3食ともそばである。ネギを入れたりワカメを入れたり薬味は多少色があるが、そば一本でやっている。暑い寒いに応じて、かけと盛りで食べ分けてきた。飽きない。


以上の食生活を送っている中でオガサワラ氏の食についてのレポートを読み、思うことがあった。
というのは、「植物はめちゃ効率的なシステムをもっている」云々の箇所のこと。植物に比して、ヒトはなんと非効率的な生き物なのだ。。。。と悲しくなっていたところだったのだ、丁度。

例えば、栄養士は「そばばかり食べていてはダメじゃん、セロリとか畜肉とかエキストラバージンオイルとか摂らないと。なぜって君の身体はビタミンABCやタンパク質や油分などによって健康を保つ身体なのだから」などと言う。がために、健康的に生きようとすれば、そばの他にほうれん草とかビーフ、トーフなどを摂らなくてはならない。っていうか、銭を出して買わなければならない。自家調達で五大栄養素を随意に十分に産出できるのは夢の話だ。っていうか、銭云々以前に、何が足りてて何が足りていないのか、そんなことをいちいち認識して食物を揃い集めることが、イソガシー現代の俺らには難儀だよ。メンドクセンダヨ。
だから、っつって欧米の誰かが「ソイレント」なんてな万能飲料を開発したこともあったが、「同じ味は飽きる」「咀嚼したい」などという情緒的な文句が飛び出して人口に膾炙しなかった。
僕らはヒトとして人間として、多種多様なものを食物とし、生きていかねばならない。生物として、心身共に健康的に生きていくことができない。これって極めて不自由じゃないですか、非効率じゃないですか。閉じ込められているじゃないですか。

オガサワラ氏の言うように、植物は光合成、っていうかCO2や水分などのヒトに比べて極めて限定的なものによって健康を保ち、生きている。とんでもなく効率的な奴らだ。ミドリムシなんかはその上、動くこともできる。ビバ・ミドリムシ

植物でなくても、ヒトより効率的な食生活を送る生き物はたくさんいて、ヒト以外の動物がそうだあね。チーターはガゼルとかヌーといった他の動物肉しか食べないし、コアラはユーカリの葉しか食べない。牛は草、猫はカリカリ。それでも奴らは健康的だ。彼らの骨格や内蔵は、ある肉や葉っぱしか生存に必要としない身体のつくりになっているのだ。

それを思うと、様々な栄養素に頼らなくてはならないヒトの食体系は不便だといえる。
人間は「俺たちが万物の霊長だあ」などと威張ってきたが、その他の動植物と比較し、生命の黎明に生きた小さな単細胞生物たちへ進化の螺旋を遡っていくと、彼らの方がとてつもなくコスパのよい命の保ち方をしていることに気づかざるを得ない。食に関する生存の効率の良さで、ヒトは完全に敗けている。
便利進歩進化発展改良etc・・・という言葉たちが無駄を殺ぎ落とし、美しい効率を、洗練された人間の生活を指向することを意味するとしたら、我々の食とはなんと蛇足かつ不細工かつ不合理なものだろう。。。。



というのは、ヒトを生物学や数学の科学的視点からみて言えることだ。ヒト以外の大方の生物には無駄がなく、優れた効率を備えた生体システムをもっている。うつつを抜かして無駄と踊っていると、滅亡するからだ。
ヒトには無駄がある。ヒトの生体システムは、他の生物のそれと比較して劣等に違いない。ゴテゴテと余計な機能が付き(精神とやらが特に)、平民をたらい回しにする役所や日本企業のように、関係各所で必要なハンコが多過ぎる。悲しいぜ。ペシミスティック。

じゃあこれを、生物としてのヒトではなく、なんつうんだ、哲学じみてきて嫌なのだがしょうがない、存在としての人間、てな風に考えるとどう捉えられるか。人間のユニークな点、他のあらゆる生物には無い特徴として「生物として非効率であり、無駄が多い」ことが挙げられる。

つまり人間の核は、非効率や無駄にあるはずだ。道具の発明だの機械の構築だのと言う人もいるだろうが、それら拡張の背景には非効率が源泉にある。根っから、非効率極まりない集団なのだ、我々、人間は。生物として生存する働きだけに、集中特化することができない。
だから人間は、「愛ってなあに」だの「ソープランドという場所へ行ってみたい」だの「年功序列」だの「あいつを殺して俺も死ぬ」だのと考えることにエネルギーを費やす。チーターやコアラは、「たまにはシナモンたっぷりのヨークシャープディングが食べたい」だの「なぜ私は木にしがみついているのか、それは私にとって何を意味するのか」などと考えることはないだろう。それはあまりにも生存に非効率であり、死をもたらすからだ。

そして、この非効率さがなければ、美食やグルメといった食文化はもちろん、善悪や宗教もなかっただろうし、理科系学者の多くに理解のされぬ哲学や芸術とよばれる一切が生じなかっただろう。それらは全て、生命の維持に直結しない。だから文系の学生は無能扱いされやすい。少しは数学や物理もやった方がいい。やった方がよかった。。。


そういうことなので今現在、世界中を席巻するCovid-19に人間がいいようにされているのも、仕方のないことダナーと思ってしまう。やつらは単細胞生物でさえない。遺伝子だけを持つ、一本気でシンプルな奴らだそうな。自らの遺伝子を持ったウイルスをどうにかして増やすことのみが奴らの純粋な目的であり、それ以外になにもない。
だから、ただ生存することそれ以外の余計な目的をもった人間同士で築き上げたあらゆる社会のあらゆる事柄が、混乱の極みに落ちたことは、これはもうしょうがない。
でもこれは案外、救いだと思う。何かが変わる。すると余計な、生存に直結しない雑多な物事の中から、次の目が必ず出る。だろう。良し悪し関わらずに変わること、それが進化じゃないか。進歩の過程じゃないか。流れの滞った水は、必ず濁る。
うつつを抜かしていない人達からはひっぱたかれるだろうが。。。。


よく分からない上に暗い文章になったが、とりあえず変わるものは変わる。変わらないものは変わらない。私はまだしばらく、そばを食べ続ける。そばが好きさ、朝も昼も夜も。


次回はオガサワラ氏の回、テーマは「今日の一枚」、写真付きでお届けしてくれるそうです。

文責 : 合間芋子