俺はなんばんぼし

釣具屋と不動産屋の

第〰‡回「2月18日 ジュラシック・パーク上を読んだ」

世間には、なんたら週間だの、かんたら月間だのといって「みんなでなんたらの意識を高めようよ、しっかりやろうよ」という運動がしばしば起こっており、これの最たるものは交通関係の週間あるいは月間であろうが、北の街・札幌では秋口っていうか冬口っていうか、毎年10月ごろに駅前に警察官が何人も立って、町ゆく青年、たとえば自分などに「ちょっときみ、いいかな」などと声をかけて「なんです」「きみのこの自転車ね、これきみの?」「はい?」「この自転車は君のものなの?」「あ、そうです自分のです」「いやね、ここの、錠がね、壊れてるみたいで、一応防犯登録の確認させてもらっていいかな、いや最近ね、自転車の盗難とか多くって、一応ね」などという会話を辻々で行っており、実に辟易とするもので、札幌3年目くらいからは10月時期は駅前を通行しないようにしたものである。あれは『防犯登録週間』などという、時期の由来が不明な週間運動に違いない。

そういうわけでなんたら週間、にはこと気を付けて生きてきたが、自分は今、懐古趣味週間に入っている。4週連続で入っているので月間になる。
昼日中、自宅近くのスーパーマーケットでおばん達にまざってレジの列に並んでいた時、そこがたまたまお菓子コーナーだった。列は長い。おばん達と話すこともない、というか見知らぬおばんと話す度胸がそもそもない。ので、暇な眼球を泳がせていると、ある棚の一画で眼球は止まった。そこはひとつ300円から500円ほどする、お菓子というよりおもちゃの類の棚だった。自分は20数年を遡った。というのは精神的な話で、脳みその方ではしなびたメモリーを巻き戻しつつ、身体の眼球の方はあるおもちゃを探して縦横に走る。棚の一画を20往復位したのち、それがないことに気づいた。レゴブロックがなくなっている。

いつからこうしたスーパーマーケットの棚に並ばなくなったのかまだ調べられていないが、20年ほど前までは、申し訳程度のラムネ菓子とレゴブロックがスーパーマーケットの棚で売られていた。当時、年齢一桁の自分にとって、数百円とは現在の金銭感覚でいうと数十万円の価値があった(ひと月にもらえる小遣いが、自分は300円だった。これは現在のサラリーと扱いとしては等しい)。がために、そうそう手に入れられるものではなく、羨望の象徴というか権化というか、そういうものだった。自分の原風景にある、ノスタルジイそのものだった。
姉妹に挟まれ、家庭で遊び相手のいない自分にとって、レゴブロックだけがフレンドであった。

レジの列でレゴブロックの追憶にトリガーを引かれた自分は、なぜ今まで思いつきもしなかったのか不思議で、その穴を埋めるように各種ネットオークションで買い漁りをはじめ、今に至る。298円の白葱(3本)を前にしては、行きつ戻りつ5分は悩むが、この一か月で20万円強を費消した。家賃は月額52000円だ。構わないのだ。20数年前に見たそれらが、今も変わらぬ姿形で目の前にある。お金はタイムマシンだ。時間の暴力に勝利する感覚がある。お金で記憶を、過去を購う感覚がある。これは、はっきり申し上げると、まことに気持がよい。感動である。痛快である。快感である。
しかし、快感というものは厄介で、必ず終わりというか終局があり、とはいっても気持ちよいのだから中途でやめにくい。抗いがたい手招きをする。招かれた先には沼がある。溺れれば破滅する。自分の場合は、お金がなくなり米塩に事欠くようになることだろう。だから、どこかでトリガーから指を離さなければならない、がいつ離すのかは分からない。

過ぎ去ったはずのものをお金で手に入れる。
ジュラシックパークにも、似たようなものを感じる。スピルバーグ監督による映画が有名で3まで出ているが、原作の小説の方がこの、過ぎ去ったものを金を使ってなにがなんでも手に入れる感じ、が強く鋭く感じられて、感慨深い。
確かに恐竜は見たい。誰も見たことがない、はるかいにしえの存在を見てみたい。来し方を超越し、在るはずのないものを存在させる。それはおそらく、恐ろしいほどに快感だろう。
読んでいる間は恐竜の再生が実現したような気になるが、本を閉じればそんなことは実現していない。それでも、本の中では実現している。

脳みそと人間世界にやさしい、とてもいい小説だと思う。読んでいる途中で気づいたが、上下巻で完結するらしい。今、上巻しか手元にない。下巻も早いところ、買うか借りてくるかするしかない。レゴは借りられないので買うしかない。

文責 不動産屋