俺はなんばんぼし

釣具屋と不動産屋の

第πМ回「2021年3月3日 人間でないものになりたくて」

足音がうるさい、と苦情をいただいてからこっち、足音のみならず諸々の生活の音に気を張っている。なるべく歩かないようにするのが肝心だが、一歩も動かずにすべての用を足すのは不可能なので、もう私は鳥になってしまいたい。鳥なら空中に浮いていることができますでしょ。鳥になって、という曲がスピッツにあるが、「ああ覚悟ができないままで僕は生きている」と歌う箇所がこの曲では一番好きだね、私は。
でも鳥になっても完全に宙に浮かんでいるわけにもいかず、いつかは地面・床におりなくてはならないから、鳥はだめだね。っていうか、ずっと空中にいて地面におりない生き物など存在するのだろうか。10秒ほど考えてみたけれども、私の脳みそからは候補が湧いてこない。生き物はすべて地面に縛られているのである、結局は重力に支配されているのである。話は変わるが、私は重力と引力の違いが判らない。高校時代に物理をまじめに学ばなかったからである。話は戻るが、おそらく地球上で空中に存在し続けるためには空気よりも軽い必要がある。つまり水素とかヘリウムとか炭素とか酸素とか、そういう気体となった分子・原子しかいないのじゃないか。とすると、足音をたてぬように、みずからを地面・床につけぬように生きていくには、研究室や科学者の頭の中にあるような存在にならなければいけない。人間がそういった分子・原子になれる時はすでに死んでいる。足音を立てるな、とは君はできればお死になさい、というメッセージと半ば同義なんじゃないか。

じゃあどうすればいいのか。俺は死ぬしかないのか。生きるということは他人に迷惑をかけることなのか。そうなんだ、生きることは互いに迷惑をかけあうことなのです、みんながみんなに迷惑しているんです、たくさんの人間がいてその中のひとりがあなたなのです、餌にむらがる池の鯉のように互いが互いを邪魔だと思っているんです、みんな窒息しそうに口をパクパクさせているのです、それが人間の世なのです。悲しいですね。苦しいですね。頭の方が、どうにかなってしまいそうですね。と脳みそで思った私はとりあえず煙草を吸いに換気扇の下で絶望していたが、ある存在に思いが及んだ。

生きながらにして、地面・床の上に存在しながらも足音を立てぬ方法があった。足は動かしても音をたてなければいいのである。この歩行法を人は忍び足と呼ぶ。つまり忍者になればいいのではないか。

調べてみたところ、日本各地で忍者教室が開かれているらしい。伝授してもらえる技術としては忍び足のほか、手裏剣投げ、城壁登り、吹き矢などが紹介されている。だが、ほとんどは見栄えがするだけで実用的でない技術に思える。いったいどこの誰が城壁を登るというのだ? 日常生活においていつ吹き矢を使うというのだ? 外国人が見たら「オーニンジャ」ともてはやしてくれるだろうが、それまでじゃないか。
忍び足こそ忍者の神髄であると私は思う。確かに忍び足は地味である。目立たぬ技術である。しかし、地味であること、目立たぬことはしのびに生きる者の本分なのではないか。忍者は陰にあることによって花開く存在なのだ。たぶん。

こうなったら、忍び足に特化した専門教室に入塾したい。そして足音を一切立てぬ存在になりたい。そう思って忍び足の専門学校を探したが、それらしいものは見つからなかった。忍足研究所、という所は見つけたが、フィルター製造の会社である。実にナイスな会社名だと思う。
やはり忍び足を極めるためには、忍者の本場である伊賀甲賀へ行脚しなければならないのだろうか。

 

階下の苦情について考えていたら思い出した映画がある。「テナント」という題の映画だった。監督はロマンポランスキーだったかヒッチコックだったか、覚えていないが、女装しての転落死だけはしたくない、と思わせてくれた映画であった。
女装して転落する男といえば大江健三郎の「我らの狂気を生き延びる術を教えよ」にも出てきましたね。精神的に追い詰められた末の奇行という点でこの映画と小説は共通するが、そのほかの関連性は判らない。ただ、強迫観念が極限に達したとき、男は女装に光明を求め、昇華するために落下したくなるのかもしれない。足音に対する意識が極まる前に、なんとか忍び足を極めたいものであります。

 

文責:不動産屋