俺はなんばんぼし

釣具屋と不動産屋の

第ηξ回「2021年3月6日 飯尾も井出と形原が遺体」

今となってははや82、じゃない、28になってしまった私。腐ったような日々に飽和しつつ惰性のなかに漂って生きているが、そんな私にも高校生の頃があった。
高校生。
高校生。高校生。高校生。高校生。高校生。高校生。高校生。高校生。高校生。高校生。高校生。高校生。高校生。高校生。。。、。。
何度、高校生。と書いてみてもしみじみとしない。良い思い出がなく、忘れたいことばかりだ。ちなみに、いいおもいでが、と打つと「飯尾も井出が」と候補が出てきた。
飯尾も井出が。
飯尾とはたれなのか。井出も一体たれなのか。飯尾も井出がどうかやったのか。なにをしたのだ、井出は。このスマート・フォンはぜんたい、何を考えているのか。まったく分からない。

だが、それでいいのだろうか。それというのは、飯尾と井出について、「まったく分からない」という幼稚な返事しかできないことだ。スマート・フォンのはたらきに対して、「まったく分からない」。これでは愚かな情弱そのものであり、片腹が痛い。人間に生まれた以上、俺は人間至上主義でいきたい。
あっ、あっ、っていうか、今俺は「片腹が痛い」と打とうとした。しかし、実際に出てきた候補は「形原が遺体」であった。
形原とはいったいなになのだ。たれなのだ。形原をのっけから遺体にしていくスタイル。亡き者としているスタイル。それが最先端機器、スマート・フォンのスタイルなのか。人間が作り出したものに人間が支配されている。人間が機械にいいようにされ、やつらの電池としてしか存在できないマトリックスの世界は近いのか。


やはり、近いのかもしれない。
というのも、3文前に「最先端機器」と打とうとした時に初め出てきた候補というのが「最先端危機」だったのだから。


おらあ万物の霊長だあ。などとうそぶいて、若い娘の尻をなぜたり流行りのスイーツを食べ歩いたりしていたが、人間はどうしようもなくもろい。
だから、理科系の偉いおっさんや意識高い今時の社会学者がいうように、人間の仕事はどんどん最先端機器に奪われていくだろう。
なんたって最先端危機だからだ。

だから,幸か不幸か今の世にいる人は、最先端機器が逆立ちしてもできないことをやる必要がある。
最先端機器ができないことといえば、やはり最先端ではないことなので、つまり古めかしいことだろう。8Kテレビジョンに昔の真空管テレビジョンのような、はじめボヤーっとした映し方ができるか。ニンテンドースイッチのゲームに、往年のスーファミカセットのあのセーブデータのはかなさが真似できるか。どうだ。


案外、できてしまうかもしれない。なんたって、最先端だ。前にしか進まない時というモノの最も先をゆくもの、それが最先端だ。どうやるのか知らんが、そういう昔風の動きをするようにプログラミングすれば、できるのだろう。


わなわなな、わなななな。わななわなわ。ななわなわわなななわなわなわな。
もう人間はわなないているしかない。そう思ったので戦慄いていたものの、はっきり言ってただこうして戦慄いているのは無駄で、綿矢りさに戦慄きを見られでもしたら、勝手になんたららと言われてしまいかねない。

なのでわななくのはやめにして、前向きに人間の可能性を模索しないとだめだ。
その可能性はぶっちゃけ、無駄なこと無意味なこと、にあると思う。
無駄にわなないていてふと思ったことだが、果たして最先端機器は無駄にわなないたりするだろうか。絶対にしない。最先端の世界は、ある目的を達成するための最も効率の良い方法を更新してゆく世界であって、効率を求めれば無駄というものが存在を許されない。というと、「最先端機器なのだから無駄な動きをプログラミングすることもできるじゃないかー」と食ってかかる人もいるが、その人は間違っている。最先端機器が無駄な動きをしたとしても、それは無駄な動きをする、という目的のプログラムを達成したということであり、純粋な無駄とは月とスッポムだからだ。


では、純粋な無駄とはなになのか。これはマジで無駄なこと、何も生産性がないことでなければお話にならない。
例えば。
日本全国の地方を回って各自治体の盆踊りを完璧にマスターし、「第49回ライオンズクラブ主催全日本盆ダンスコンテスト選手権インParis2020滋賀県大会予選」をタクラマカン砂漠にて単独で開催、炎天下のもと生命の危機を感ずるまで踊り狂い、這々の体で三日月湖のオアシスを見つけ出して水の有り難さ美味しさにカンドーして、たまたま持っていた2リットルペットボトルに水を汲んで日本に持ち帰ろうとするも空港の荷物検査でとめられ、命をつなぎとめた甘露水をトイレに流す。

あるいは。
時間が過ぎていくのがここのところ早い、と思いだしたら時間に怒りを感じるようになり、むかつけどむかつけど時間のやつを殴ることも蹴ることも切ることもできないので、職場の仲間に「こないだ時間のやつが赤羽の飲み屋で不細工な婆と…」と時間に関するあらぬ噂を広めていたらなぜか会社を馘首になり、憎い時間が有り余ってしまいどうしようもないので部屋で時間の権化である時計を睨みつけていたら時間の流れから解放され、ふと気付けば1000年の時が経っていて東京の空にオーロラ。みたいな。


どうだろう、本当にこれらは無駄だろうか。考えてみれば前者には、盆踊りを踊れるようになってしまう、しかも全国各地の。さらにタクラマカン砂漠で生死の境をさまよった経験が今後、この者には活きる場面があるだろう。
後者の方が無駄っぽさが強いが、自分で書いといてなんですが、時間と1000年も向き合うことで時間というものの何たるかを多少悟ってしまうのではないか。悟りとは果実であり、けして無駄ではないことになってしまう。

こう考えると、本当に無駄なことというのは案外難しい。しかし、無駄なことを突き詰めなければ最先端機器に人間は負けることになる。
どうしたらいいのだ、人間は。。。

 

P.S. 本日は群馬県が高崎へ参りました。北関東の風景は、どこも変わらんのだなあと思いました。明らかに違うところがあるのかもしれないけど、自分には感じられないだけなのかもしれない。

文責:不動産屋