俺はなんばんぼし

釣具屋と不動産屋の

第йΓ回「2021年3月16日 追記/メガネは私のすべてです」

残業だけはしたらいかん。昨日あれだけつよい気持でそう思ったのに、今日もまた残業をしてしまった。しかも、虚偽報告の罪も犯した。19:30ごろに「終業」の打刻をしたのだが、本当は20:20頃まで業務にあたった。50分ぶんの嘘である。嘘はどろぼうの始まり、などと言うが、とうとう始まってしまった。こうして私の泥棒ライフが、ここに幕あけたのである。 完

 

追記>

先ほど、偶にはジャパニーズポップミュージックでも聞いて楽音の素養を高めようかしら、などと思い立ってiTunesを開いたの。iTunesに入っているのは町田町蔵スピッツ相対性理論、計3つのアーティスト。気ままに聞き散らしていたら、相対性理論の「さわやか会社員」が流れてきた。この曲の味噌はギターソロだよね特に終盤のそれがいいよね、と自分はずっと思っているのだが、誰ともこの曲について意見を交わしたことがないから、他の人がこの曲の味噌をどこに感じているかは知らん。もしかしたら味噌など感じていないかもしれない。あるいは他の箇所に味噌を感じているかもしれない。そういう人とは意見を交わし、合せ味噌にしたいとも思っている。それでいつものように素晴らしいギターソロを聞き終わったのだが、いつもとは違う感じが胸中に湧いた。それを言葉で表すと、メガネ? である。脳内で◀◀のボタンを押して巻き戻した。問題の箇所は出だしだ。この曲の出だしはこうである。

♪ メガネは顔の一部じゃない あなたは私のすべてじゃない
      恋するだけが乙女じゃない 素直なだけがいい子じゃない ♪
(作詞曲・真部 脩一)

どうやら、メガネは顔の一部じゃないらしい。メガネは顔の一部じゃない。けだし正論である。メガネは顔の一部じゃないのだ、っていうか顔のすべてでもない。メガネはメガネだ。しかし、本当にそうだろうか。
メガネをかけた人をイメージしてほしい。例えば、野比のび太を考えてみると見るからにメガネをかけた人物だ。「メガネをかけている人なんだな」とわざわざ思うことはないだろうが、「メガネをかけた人物」として認識しているはずである。この時、メガネは野比のび太の顔を形成するに必要不可欠な一部になっているはずである。現実世界で考えてみても、メガネをかけていた人がある日コンタクトレンズで現れると、顔の印象が変わった、と思う。メガネが顔の一部になっている証拠だ。メガネなしでは個人が認識されない。人間の喪失だ。

このへん、長尾謙一郎はよく心得ていると思う。おしゃれ手帖という長尾謙一郎の漫画に、「メガネ~は顔の一部です~」と学生が手に手を取り合って歌うシーンがある。吹き出しにあるセリフではなく、セリフの埒外にちょこまかとさりげなく書かれているのが、かえって鮮やかだ。しかし、どのエピソードだったか思い出せない。さっき1~5巻のそれらしいエピソードを探したが無い。「人は人の顔をメガネ込みで認識し、判断する。メガネはもはや単なるメガネではないのである」という歴然たる事実を長尾謙一郎はさりげなく訴えている。ナイスだと思う。
だが、長尾謙一郎がメガネに投げかける視線はいよよ鋭い。
本名は堀現子を名乗るメガネのブスキャラが登場するが、掘のあだ名はずばりメガネである。つまり、堀は顔だけでなく、その存在すべてをメガネに侵されているのだ。これは別にメガネに限ったことではない。髪の毛がうすくなった人は、「あのハゲ」などと呼ばれ、歯が出ている人は「出っ歯」などと呼ばれる。禿頭や出っ歯がその人の存在を凌駕している。たぶん、人は人にそこまで強い興味を抱くものではなく、がためにそのような特徴を見つけないとある人を他の人と分けて認識できないのではないだろうか、と思われる。

 

自分もメガネをかけているが、最近セルロイドフレームからフィナンシャルプランナーがかけているような細いつるのフチなしメガネに替えたら、なんか明るくなったね。と言われた。メガネは顔の一部なのだなあ、浸食されているのだなあと強く思う。

 

文責:不動産屋