俺はなんばんぼし

釣具屋と不動産屋の

第Ю¶回「2021年3月19日 次世代型のおかしい人/推薦困難書物事情」

このところ、往来を歩いていると単独で話している人をよく見かける。ならんで話している人もなく、耳に電話を当てているわけでもないのにひとり「ああそう、でさー」などと発話している光景はちょっとやばい人に見える。が、別にやばい人ではなく、ハンズフリーの機能を使って通話しているらしい。片方の手のひらをもう片方のこぶしでもってポンと叩いて「あなーる」と納得してみても、この光景はまだ自分は慣れない。切羽詰まって台本を諳んじている人か、おかしな人か、そのどちらかがまず頭脳に浮かんでくる。動揺するぜ。

今から約30年前くらいの携帯電話が一般に普及し始めた時期も、同じような動揺に襲われた人がいたと思われる。それまで(携帯電話が登場するまで)、電話と言えば据え置きの家庭用電話機や公衆の電話ボックスしかなく、場所を移りながら人と話す、というスタイルが常識で、携帯電話はこのスタイルを破壊するものだったのだろう。当時の人ははじめ、たいそう驚いたことだと思う。しかし、今では普通のことになっている。

だから、ハンズフリースタイルもそのうち気づいたら普通のことになるのだろうが、次はどんなスタイルに驚くことになるのだろうか。

 

ということは正味どうでもよく、問題は友人に「本を読みたいのだが何を読んだらいいのかわからない」という相談をうけているので自分は回答しなくてはならない、ということでして・・・

そんなことを聞かれてもわからない、というのが正直なところじゃ。
だってそうじゃないですか、読書って、人によって求める処が異なるでございましょ? あと読むレベルというか読める書物と読めない書物がこれはあるし、まあいろいろとその人と本の関係性について熟慮玩味のうえ、その人にとっての最適解を探す必要がある。自分がこれは傑作や、ナイスな一冊や。と思っても、他の人にとっては駄作と思われることが往々にしてあるし、相手の反応を考えずに、これはいい書物ですのでぜひ読んでください、と薦めることは時には暴力になることもあるから気をつけなければならない。というのは、たとえ本を渡されたとしても読みたくなければその辺に置かれ埃が積もるだけで、いつか返すことになるだろうがその時に感想のようなものを求められ「けっこうよかったよ」とあいまいな返事しかできず、互いの関係性にわずかな暗雲がたつ恐れがある。また、気の弱い人だと興味はないが読まなくてはならんと追い詰められてしまい、半ば読書は苦役のようになって、一応一通り読むから感想は言えるのだけれども、貸した方は味をしめてまた面白くもない本を貸してきて、この世にカルマがひとつ増える、ということになるのである。悲しいことだ。

そういうことなんで、他人に本を薦める、という行為はちょっとまじめにやろうとすると大変な一大事業に発展するので、問題になっているのだ、今。
その人は昨年10月に婚礼祝賀会を行っており、最近住まいを同じくした、という家庭人である。彼には結婚相手と末永く手に手を携えて生きていってもらいたいものだが、あほなことに過去、不義の恋愛に手を染めたことがある、というデータがここにある。すべての夫婦にあてはまるわけではないだろうが、不義の恋愛はまあ穏当な夫婦生活を破砕する一因となるのではないか。

そう思ってあたりを見回すと、「できそこないの男たち」という背表紙が見つかった。福岡伸一の本。あるいは、「すべての男は消耗品である」というのも見つかった。村上龍の本。あるいは「家族八景」、筒井康隆。「わたしの・棄てた・女」、遠藤周作。「愛のコリーダ」、大島渚。これは違うか。「人間の性はなぜ奇妙に進化したのか」、ジャレドダイヤモンド。

個人的にはジャレドダイヤモンドだが、彼は昼休憩に会社で伊豆の踊子を読むような人間なので、遠藤周作がいいかもしれない。明日、愛をこめて花束と併せて送ろうと思う。

 

文責:不動産屋