俺はなんばんぼし

釣具屋と不動産屋の

第аД回「2021年3月22日 オプティミズム・デブ」

昨夜、寝ていたところに目を覚ました。というのは、別に朝を迎えたからでも、眠気がなくなるほど長時間寝たからでもなく、胸の痛みによって目を覚ましたのね。肺だか心臓だか知らないが、その辺がきりりと鋭く痛んで、思わず胸に手をやった。
こんなことは今までにもしばしば起きていて、ちくりと刺すような痛みが2,3回訪れてそのまま消えていくことが多かった。しかし、今回の痛みは長かった。2分かそこら、胸は痛み続けて、その間、脳みそには昔みた視界、インドの荒れ地やアマゾンのドキュメンタリー番組に出てきた毒々しい色をした蛙などの映像が流れ込んできた。これまで瞬間に終わっていた痛みが続いたことに、自分は恐怖した。そして、死にたくはないものだナ、と切に思った。痛みが収まると、シーツをにぎりしめて、生きているナ、と思った。
自分の健康のことをけっこうマジに心配したのは、この時が初めてかもしれない。そして、将来のこと、政治のこと、お金のこと、環境のこと、可燃ごみを捨て忘れたこと、猫がいつか自分より先にこの世から去ってしまうのではないかということ、など暗く黒く重い想念が次から次へと湧いてきて、すっかり私は悲観的な人間になっていた。

しかし、病は気から、という言い伝えがある。何度となく人生で聞いた言葉だが、一番はじめに誰に聞いたのだったか。希望を言えば、やはりおばあちゃんからこういう話はしてほしいものである聞きたいものである。その方がぐっとくる気がするから。

そういうわけなので、楽観的に物事を考える人間、そういうものに私はなりたい。といっても、前向きなこと、例えば2兆円拾ったとか、親がピューリッツァー賞をとったとか、猫が皿洗いをしてくれるようになったとかそういう予め前向きなことを前向きに考えても、それは前を向き過ぎで、お釈迦様が人間中庸が肝心や、つまり過ぎた行為はよそうっつうわけね、と仰ったように、あまり褒められたものではない。なので、後ろ向きなこと、ネガティブなことをあえて、つうか頑張って前向きにポジティヴに考えること、これに意味があるのだ意義があるのだ。

ということで、いきなりはっきり申し上げると、自分はデブなのかもしれない。っていうか、デブだ。サモハンキンポーに似ている、と会社でいわれ哄笑の的になっている。誉め言葉なのかそうでないのか、微妙なところで、それは個人の受け取り方に依存するが、サモハンキンポーは個人的には好きだ。しかし、サモハンはぶっちゃけデブである。燃えよデブゴン、という映画の監督・主演をしているし、自他ともに認めるデブなのだろう。そんなサモハンに似ている、と言われるのだから、あいつもデブの一員だ、と自分は周りに思われていることになる。
デブはなんとなく不細工だ、運動ができない、臭い、面積を余分にとる、近くによると暑い、早く動けない、仕事ができない、清潔感がない、だらしがない、堕落している、などというイメージがあると思われる。これらははっきり申し上げて、人々が忌避する、ネガティブな要素だ。ステレオタイプなイメージだが、もちろん、例外はある。サモハンは動けるデブだし、各界で活躍するデブもいる。しかしかなしきかな、これらのイメージは世間のデブに対する印象として固着してから久しい。この堅牢な想念を社会的に覆すには、相当な時間がかかると思われる。

さあこの状況を前向きに、ポジティブに捉えていきたい。掴んでいきたい。シーツを掴んで立ち上がれ。
まずデブの特徴として、近くによると暑い、というものがあるが、これは割といける、そんな気がする。
大学生の頃、自分は北海道にある学生寮に住んでいたが、この寮はよく言えばレトロ・アンティークな趣のある建物、普通に言えば貧乏長屋、悪く言えば泥桁の貧民窟のような場所だった。閉まるはずの扉窓は閉まらずに室内で積雪がみられ、隙間風っていうかそのまま風が吹き通る。そういう住まいだったため、冬は非常に苛烈に寒く、がために冬季はまあるく縮こまって肩を寄せ合い、小動物のように震えていることしかできず、勉学に勤しむこともままならなかった。入寮するとその大半以上が大学を留年する、という言い伝えが構内に流布されており、自分ら寮生はだだけ者の集まりとして学内カーストの最下層に属していたが、そうした傾向は住環境に起因していた、という説が現在は優勢である。

はっきり申し上げて、こうした状況でのデブの存在というものは、非常にありがたいものだ。マストメンバーといっても過言ではない。なにしろ近くに寄るだけで暖かいのである。また、デブの人というのは体形的にとがったところが少なく、丸みを帯びているもので、いわゆるぽっちゃり系が癒しの対象となるように、その存在自体が心に灯をともすような精神的な温かさ・安心感を周囲に提供する。
このようにデブな人は恵みを与える存在だったが、また自らにとってもプラスに働いたはずである。寒い場所では脂肪を体内に蓄えることが生きていくうえで重要で、この観点からデブは北国という地に適応した体形であるともいえる。

一般的には卑下されがちなデブであるが、このような寒い環境であれば非常に前向きな存在となるのである。
でも、別に寒いところじゃなかったら、デブはただのデブのままなんでしょうに。やっぱりデブはお断り。と言う人があるかもしれないが、君は地球寒冷化のことを知らないからそういうことが言えるのだ、とその人に言ってやりたいと思う。自分などは。

昨日、本を読んでいたら毎日気温や気圧のグラフを取っている博士がでてきて、博士いわく、「昨今世界中ではいわゆる地球温暖化現象の被害や対策が声高に叫ばれているが、一概に地球は温暖化に進んでいるわけではない。むしろ、惑星の歴史、惑星の時間軸で考えると現在の地球は氷河期に向かっている、つまり地球はどんどん冷えていくはずなのだ、計算上はね。」と仰っておられた。
自分で数字をとったわけではないから詳しくは知らんし信じきれもしないが、博士の言うこと書くことはいちいち、なるほどナー、と思わず合点がいく。人間の文明活動は古くは中国4千年の歴史がどうたら、シュメール人がかんたら、とかやっているが、そんなものは惑星地球からしたらカップのヌードルを待つよりも短い時間であって、最近の気温上昇はささいなものに過ぎず、地球全体として大きな矢印は寒冷化に向かっているのだという。この辺の詳しいことは、根本順吉博士の著作を参考にされたい。

こうなってくると、いつの日かデブの存在というものは人類にとって欠かせないものになるはずだ。デブの性質を備えていることが、環境に対する最適解になる日が来るはずだ。ただ、それはおそらく遠い未来の話で、自分はもはやこの世に生きていないだろう。しかし、遠い未来に適した性質を備えている、ということは未来志向型、つまりは時代を先どっている、ともいえるのではないか。
デブのみなさん! 辞世の句はこれでいきましょう。

「生まれる時代が早すぎた」

 

文責:体重22000匁の不動産屋