俺はなんばんぼし

釣具屋と不動産屋の

第ОΑ回「2021年4月6日 環境の閾値 バイ マングローブ」

高校生の頃が自分にもあり、その頃なにの授業だったか忘れたが「エビと日本人」という岩波新書の本を読まされたことがあった。読まされた、ってネガティブだけど知的好奇心の欠片が自分にはなく、図書室では火の鳥とかを読んでいたので、そのような活字の御本を読まされるという受動意識があったのは仕方がない。それでも教師のいうようにこの本を読んでみたが、ほとんどは記憶に残っておらず、印象の断片しか残存していない。たしか、概要はこんな感じだった。

ニポン人はエビが好きである/また、高度経済成長期に頑張ったから世界の国々と比べてややモチカネになったのである/それでエビを買い求める人がたくさんになったのである/しかし近海遠海で獲れるエビの量には限りというものがあるので困ったのである/そこでニポン人は考えたのである/養殖すなはちたくさん育ててたくさん獲れる環境を作り出せばいいのである/そんで選ばれたのがインドネシアだったのである/インドネシアにはエビ養殖に適した環境があったが、マングローブがようけ茂っているのである/そこでニポン人はマングローブを伐り倒してエビ用の池を作ったのである/エビをたくさん育て、ニポン人の腹の中へそれらを消していったのである/ニポン人の食欲は満たされたのである/ニポン人は儲けたのである/そして、エビ育てスペースを設けるためにマングローブ林も消えていったのである/マングローブが消滅したインドネシアの環境は目茶苦茶である/哀しきエコノミックアニマルたちよ、環境破壊なる言葉を知っているかー

そんな感じの内容だった。たいへんなことである。切実なことである。そう思ったが、別に環境保護団体に入団するわけでもなく、インドネシアまで出かけていってマングローブの苗を植えるわけでもなく、「一日にテニスコート何面分の森林が消失しているか、おたく、ご存じ?」などと街頭でアンケートをとるようになるわけでもなく、ただ漫然と過ごしていた。行動力のない高校生であった。

しかし今はいい年齢になったいい大人である。ニポン人がインドネシアマングローブ林を蹂躙したのは自分が生まれる前だったが、自分はそのニポン人の末裔だ。先祖の背負った業ちゅうか犯した過ちちゅうか、そういうのを末裔として受け止めて行動に移していきたい。そのように思っていた矢先、というのは昨年の8月なのだけれども、あの日守れなかった、かの日に護れなかったマングローブが近くのHCで販売されているのを発見したし目撃した。ちょこなん、とした小さな苗ではあったけど、傍らに刺さった表示板に「ガジュマル(マングローブ)」と書いてある。ガジュマルという文字や音声を観たり聞いたりすると自分はなぜか浅草の雷おこしを連想するのだが何故なのかは知らん、とにかく自分はこれをレジに運んでいって銭を払った。

そういうわけで今自分方ではマングローブの木との共存生活をしているのだが、ここはマングローブには申し訳ない環境ときている。モノホンを見たことがないのでイメージだが、なんというかこう、野生にみるマングローブは広めの泥炭地というか汽水域というか、そういう広大な水辺にばあー、と幾本も並んで生えて生きている、そんなイメージがある。
しかるに、なんですか、丼ぶりほどのプラ鉢に植わっているこの状況は。これではマングローブ冥利につくことができんではありませんか。
と自分でも思うが、賃貸集合住宅である以上、やたらと身勝手なことができないのが悲しい。できることなら部屋の中に土・泥・砂礫・水生生物(タニシ、雑魚など)・流木・各種バクテリア・川海豚、荒川の天然水などを持ち込んで野生を可及的に再現し、窓扉は開けっ放し、玄関からは水と泥が流れ、外から野鳥が飛び集まってくるメゾン・ド・ビオ・トープ at TOKIO のような状況を作りたいなあ、と祈願しているが現実がそれを許さない。

こういうわけなので、マングローブはプラ鉢におとなしくおさまってベランダの風に吹かれているが、最近生長しないのだ。新しい葉をつけんのだ、蕾を出しはしないのだ。せっかく冬も越えたというのに。というのは道理で、次のステージにマングローブは行きたがっている、ということなのだ、これは実は。鉢で植えられている植物はある程度生長すると根が伸ばせなくなり、全体の生長も止まるようになっている。かどうかは断言できないが、経験的にそうである。自分はどこからもらったのかいまだにわからぬがいつのまにか生活の風景となっていたゴムの木も育てているが、このゴムの木もそうだった。生長が止まること、これすなはち、次に大きな鉢へ移してくれろ、という植物のサインに他ならない。よって、例のHCへ自分は駆けて行って、と書くと嘘になるな、フツーに歩いて行って家族用の鍋くらいの大きさの鉢をレジスターに運んで銭を出した。

新しい環境、適切な状況を手に入れた植物の生長スピードは、眼をみはるものがある。逆に、ある環境や入れ物ではそれ以上生長ができない。
これは人間に置き換えると、人間関係や属する組織にあたるのだと思う。停滞や倦怠や不満を周囲や他者に起因させるのは安易で堕落した考えだよね、自分で状況を好転させる事ができるよね、そう努力すべきだよね、という話を耳にすることがあるが、マングローブやガジュマルを育ててみて、それは一概には言えんのではないですかなあ、という気持になっている。たぶん、人は属した社会や組織、そこの人間関係によってあらゆる閾値が設定されるのではないか。おそろしいような気もするし、別におそろしくないような気もし、でもやはりこれは恐ろしいことですよと自分は思います。

 

文責:マングローブ栽培家兼不動産屋

 

P.S.
植物の伸び方といえば、北海道の春先にみる植物を思い出す。
半年もの間、植物らは雪のした土のなかで積雪の圧力に耐えて、臥薪嘗胆あるいは捲土重来って感じで、春に跳躍する。信じることができないくらいに伸びるのが早い。自分はそこに野生のちからって言うと陳腐ですが、そういうのを感じますよ、ええ。と道民の人に話したことがあるが、同意を得られたことはない。道民にとってはごく自然なスピードなのかもしれないが。