俺はなんばんぼし

釣具屋と不動産屋の

第61回「俎板の鯉のキモチ」

あけましたおめでとうございます。って既に年が明けてから25日が経過しようとしており、本日25日は多くの勤め人にとってはおそらく給料日で、もれなくおれもそのカテゴリに属していて、少しくハッピー。

そんなわけで今日も取引先とメール連絡をやりあったのだが、メールの文末はたいてい、「よろしくお願いいたします」なんて一文で締められる。定型的な言葉・挨拶と分かっているのだが、文字通りいけばお願いされているので、本当にお願い・依頼をされている、そしてそのお願いに対して応えなければならないような、そんな感じがしてならない。
また、このお願いは取引先とのメールだけではなく、日常の社内連絡でもしばしば出てくるもので、「不動産屋さん、この予算を明日までに組んでほしいんですけど、お願いできますか?」なんて。
この「~をお願いできますか?」の答え方としては、正しくは「はい、その願いは叶えられます/いいえ、その願いは叶えられません」になると思うのだが、そう答えると不自然な感じになって、「胡乱な奴」のレッテルを貼られることになる。したがって、この願いに対しては「はい、やります/いいえ、やりません」の二択で答えるほかない。しかし、「やりません」などと言うと、別にその願いをきく余裕はあるのだがあえてやらない、みたいなニュアンスを相手に与えることになるのでまたもや、胡乱な奴、というレッテルを頂戴することになって、おれもうパニック。
だいたいそんな簡単に容易にお願いなんてしてほしくないのだが、お願いしておけばだいたいのことは気弱な人間(たとえば自分のような)が仕事をやる、指示に従ってくれるのだから、実に便利な言い回しなのだと思う。

便利な言い回しはけっこう世間にあふれていて、東京都は「皆様の外出については当面の間自粛するようお願い申し上げます」、選挙カーは「毎度お騒がせしております、愚民党の平野、平野凡蔵でございます」、役所の案内では「皆様のご理解とご協力に感謝いたします」などと喚いて憚らない。
先手必勝、とりあえずお願いしておけば、ひとこと断っておけばあとは万事快調で進むのだから、うらやましい限りである。おそろしい世の中だと思う。


そんなことを考えながら先日、自分は歯医者へ向かった。予後不良となった奥歯を2本がとこ抜いてもらうのだった。個室に設えられた治療椅子に座ってリクライニングされると、タオルが顔面にかけられた。
この、顔面にタオルをかぶせる、という方法はいつ頃から用いられるようになったのだろうか。自分が鼻を垂らした時分にはなかったと思うが・・・。はっきり申し上げて、怖いじゃないか。この世の人間は2種類に分けられて、注射される時にその場面を凝視する人、目をそむける人に分かれる。自分は完全に前者であり、痛みに関しては何が我が身に起こっているのか見ていないと不安で仕方がない。だから、もし患者の恐怖心を緩和することがタオル掛けの目的であるならば、異議を申し立てたい。しかし、別の目的も考えられて、治療中苦痛にゆがむ患者の顔面を見たくない、という施術側の事情がある可能性も考えられる。あるいは、これは猫や子犬に関しても聞く話だが、注射や薬の塗布、爪切りなど奴らが嫌がる処置を行う時に、布でその体をくるむと彼ら彼女らは安心して、その身を任せてくれるという。人間を犬猫病院に連れ込む古いギャグがあるが、この説が正しいとなると犬猫病院も侮れないものである。

諸説あるが、とにかくタオルを顔面にかけられて、そして歯は抜かれていった。強がらずに申し上げると、非常に痛かった。自分から見て左側の奥歯を抜いたのだが、ペンチかなにかで掴まれて左右に引っ張られるタイムがあったが、なぜか反対の右の奥歯も引っ張られる感覚があった。
人体とは不思議なものだわなあ、痛いわあ、と思っていると、口腔外科の先生が「痛かったら言ってくださいね」と言った。痛かったら痛いと言う。そんな簡単なことも、その時のおれはできなかった。口腔が開かれており発声できないのと、「痛いので辞めて下さい、お願いします」と言ってその願いが聞き届けられたら、後になって更なる痛みに襲われることが容易に想像できたからである。
そうした背景を知り尽くしているから「痛かったら痛いと言ってね」みたいなことが言えるのだ。おれはこうして痛みに甘んじるしかないのだ、むごい世の中になったものだ、嗚呼。
俎板の鯉、という諺があるが、鯉のキモチが分かるような気がするよ、この椅子に座ったらもうどうしようもねえ、中途で恐れをなして「やっぱり今日はいいっすわ」かなんか言って帰ったらブラックリストに載せられて以降治療をしてもらえぬだろうし、されるがままにされるしかないのだ、そしてなにより鯉は自分から俎板に乗ったわけではなく乗せられたのだろうから受け身で己の不遇を訴えることもできるだろうがおれはといえばそうではなくてめえでてめえの歯をだめにしたのだから自ら進んで処刑台に登壇しているようなもので、救いようがない、そういった意味でおれは鯉以下の存在なのだ、鯉に同情するのも畏れ多い、それがおれは物悲しい、鯉のキモチに同調させてもらえない、シェアしたいのにこのキモチ。そういえば犬/猫のキモチ、という雑誌があるけど、人間にとって鯉もきゃつら並みにポピュラーな存在になったら、鯉のキモチってタイトルの雑誌が刊行されるのだろうか、「鯉の表情特集」「ウロコの読み方」「口をパクパクさせていたら空腹のサインってホント?」「鯉に恋するカープ女子」「鯉の餌大辞典」なんてコンテンツをくんで。でも今は出版が厳しいしなあ、業界的に。そういえば業界の天気予想図なんてなものを見かけることがあるが、なぜ晴れ・曇り・雨の3種類しかないのだろうか、篠突いている業界や雷がとどろいている業界、天気雨の業界もあるだろうに、蛙や魚の天気もあれば面白い世の中になると思うのだが賛同してくれる人は地球上に何人いるのだろうか、そして参道といえば神社の社殿までの道のことだが、なぜみんな年が明けたからと言って参詣するのだろうか、葬式は仏教の真似事なのに、でも、おれはタイで篤い仏教徒である人たちがクリスマスを祝うのを見た、宗教ってなんなんだって、ベン・ハーで感じたキモチ、そいでタイのクリスマスツリーは12月25日が過ぎても片付けられることはなく、1月半ばまで残っているのに違和感を感じたものだよ。いい加減なものなのかもしれない、現代の宗教は、というか伝統というものは。いつだって純粋なのはその時代に生まれた物事なのだと思う、そしておれはたぶん現代からはもう世代が二つほど前で不純なんだ、これから生まれくる生命よ、申し訳ない、おれは二酸化炭素を排出してきたし、これからもしていくだろう、君たちの未来を考えずに、考えられずに。っていうか、おれはさっき痛みに甘んじるしかない、などと被害者ぶったことを考えていたが、結局は自分が悪いのだ、歯に関しては。歯痛のいたみは心のゆがみ、実に自己責任論的だね、今風だね。

などと想念を渦巻いていると、施術が終った。抜いた歯を見せながら術後の食やなんかについて説明する先生に対して、おれはなにも言えない。発声したら傷跡が開いてしまいそうで怖かったのである。次回の予約をする時にも受付のねえやんに対してふがふがとしか受け答えができなかった。歯がなくなる、なくなる過程とはおそろしいものだと実感した。
しばらく固形物が食べられないので(先生は半日もすれば食べられると言ったが怖くて食べられない)、ゼリーを買いにマーケットに入った。会計の時、レジ袋は要らん、と言いたかったのに言えなくてかぶりを振ったら、2円のレジ袋が計上された。情けがなかったです。

というわけで、歯は本気で大事にした方がよいです。

 

文責:不動産屋(冬)