俺はなんばんぼし

釣具屋と不動産屋の

第62回「テスト梅の木ナポレオン」

傷害だの流出だのと外野の話題で持ちきりのセンター試験のニュースを聞いてなんとなく思ったこと。
テストと名の付く試練で一番難しいのは、満点を取ることではないのじゃないかね。
もちろん満点、100点を取るに越したことはないだろうが、極論、満点・100点はまぐれでも取れる。ひとつも答えが分からないチーパッパでも、適当に答えらしきものを解答用紙に残しておけば、可能性としては満点を取るかもしれないのだ。だから、できるだけ満点を目指して躍起になってがむしゃらに解答するのは、美しくないと思う。じゃあテストにおいて何が一番難しいのかといえば、それは狙った点数を確実に取ることなのではないだろうか。

例えば70点を確実に取ろうとしたら、正解で70点分を絶対に取る必要があり、同時に30点分の不正解を冷静かつ堅実に用意する必要がある。これはけっこうスリルがある。正解の根拠、不正解の根拠を用意する必要があるからだ。テストと名づくものはいろいろあると思うが、そこには費用や時間といったコストを払っており、報われなければ損をしてしまう切実な事情があるだろう。なるべく高得点を残してそれらの投資・投機分を回収するのが賢明には違いない。
ただ、そうして運やまぐれを味方につけた結果というのは、所詮演台のハリボテなのではないか。真実真正の力が感じられない。一方、狙って合格点ギリギリを狙いすますのは、勇気の要ることだ。なにせ、1点でも足りなければ不合格となり、テストに懸けた様々なコストをどぶに捨てることになる。それでも敢えて、真の資格を持っていることを証明するために岸壁ににじりよる。美しいと思う。
物事の適当な塩梅・バランスを保つことを、足ることを知る、みたいな言葉で表現するが、テストで狙った点数を取ることは「足るを知り足らぬをも知る」ことだと思う。


2月も近づいて、梅の季節。往来をぶらついていると梅の木に紅が点じているのを見かけるようになった。梅の木には、テストに通ずるものがあると思う。
「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」という言葉の一般的な意味とは異なるかもしれないが、梅の木は「足るを知り足らぬを知る」ようでなくては、恰好がつかない。園芸的な知識は皆無だが、桜はおおらか・盛大・花盛りのようなイメージがあり、梅の木は慎ましさ・謙虚・そこはかとなさのイメージがある。梅の木は枝を伸び放題にしていては凛とした静謐さが匂ってこないと思う。かといって、適当に剪定すればいいだけではなく、梅の木の黄金律を追及する必要があって、切るべき枝と切らぬべき枝を冷静に判断しなければならないのだ。
生かすべき点は生かし、殺すべき点は殺す。テストの美学に通ずるものがある気がする。


話はテスト、梅の木ときて、ナポレオンに至る。
ミスター島流しの方ではなく、トランプゲームのナポレオンだ。5人でナポレオン陣営と連合軍陣営に分かれてカードを取り合うゲーム。
このゲームはおそらく割とルールが難しい方で、どちらかと言えばマイナーなゲームなのだが、簡単に説明すると勝利するためにはカードを何枚も獲得する必要がある。ただし、取り過ぎてはいけない。つまり、「自分の手札では何枚カードを獲得できるか、敵に何枚取られるか」を予想するゲームだと言える。テストで満点を目指すようにできる限り多くのカードを取ろうとすると、ルール的に負ける可能性があるし、なによりギリギリの判断をミスった、/日和ったと他のプレイヤーに思われて、ナポレオンの美学に反するとして糾弾される。
その辺の、余裕を残すことなくあえて紙一重を狙うゲーム性、スリルを求めるキモチ、その精神が美しいと思う。

先日、大学時代の知り合いたちとナポレオンに興じる機会があって、半日の間ぶっ通しでトランプを切りあったが、久しぶりに脳みそを酷使した気がした。
もっと普及して、プレイ人口が増えるといいがと思う。

 

文責:不動産屋


P.S. 昨日、うなぎという映画をみた。光石研が出ていたらしいが、分からなかった。みなおしても分からなかった。光石研好きなのに。