俺はなんばんぼし

釣具屋と不動産屋の

第72回「読んだ 三国志」

自分は割と本を気安く買ってしまう質で、買う時は収納の限界など考えずにいるため、気づくと難儀している。今まさに難儀しているため、本の整理に取りかかっている最中で、一度読んだけどもう再読しないであろう本、積読状態だったがおそらく今後も読むことはないと思われる本を処分しており、横山光輝三国志がその候補に挙がった。

処分する前にもう一度だけ読んでおこうと思って、1週間かけて60巻まで読んだのだが、この本は売らない方がいいかもしれない、と思い始めた。読み返してみると、再読するごとに違う印象・感想を喚起する、いわゆるするめ本というやつだ、そんな本というか代物である気がしてきた。

以前に読んだときには感じなかったこととして、世の中に成功の事例は数多くあるが、ほとんどが一代限りで終わっているのではないか、事象のピーク・核は初期段階にしか宿らないことがほとんどなのではないか、あらゆる事象において最も難しいのは後継者を設けることなのではないか、ということである。
蜀の辿った歴史を思うと、そう思う。劉備玄徳・張飛翼徳・関羽雲長、諸葛亮孔明趙雲子龍などの初期メンバーの個人・世代としての力量は確かなものがあったものの、その後継にめぼしい人物がいなかった・揃わなかったことを考えると、そう思わざるをえない。
これは宗教や企業、家系にも当てはまっていることと思う。

 

そう考えてみると、話の飛躍感は否めないが、人体というのはすごいシステムだなあと思う。人間の細胞は3か月ごとに再生するそうだが、つまりは世代が更新され続けているということで、移り行く世代のどれをとっても、同じような機能を果たしている。これは、ザ・神秘、と言わざるを得ない。
また、動物や植物などもそうだ。やつらも環境に合わせて進化なる変化を遂げるが、世代が変わることを理由とした絶滅はないのではないか。

とすると、人間とそれらの違いは何かというと、パンセが「人間は考える葦である」と言ったように「考える能力」なのだと思う。これが人間が不安定な存在である要因であり弱みであると同時に、見方をかえれば強みであるのだろう。

人間は変わりつつもなんとか存続している。変わってきたからこそ、変遷はありつつも種として生き延びてきたのかもしれない。
人間は変化しなくなったら終わりなような気もする。
そんなことを三国志を読んで思った。

文責:不動産屋

 

※登場人物がやたら多くて人名を覚えるのが大変だが、一番印象的な人物は張松である。不細工なところが好きである。