俺はなんばんぼし

釣具屋と不動産屋の

第82回「永遠なる不快指数」

気象庁によりますと、え、今年度の梅雨前線は後退し、つまるところがみなさま、え、はっきり申し上げて夏、夏でございます」なんて公共放送が聞こえてきそうな、そんな感じの酷暑日で梅雨があけてございます イン・トーキョー。

職場のGALが、夏と言えば花火っしょ! と言っていたが、あながちそうなのかもしれない。GALにとっては万国共通らしく、バンコクのGALも夏といえば花火、と言っていた。時差2時間を分けてもそのこころは同じなのである。
花火もまあ夏の代表格だろうが、自分がこれこそ夏そのものだなあ、と思うのは不快指数という、この季節限定の指数である。

簡単にいうと、蒸し暑さの程度なのだが、確かに蒸し暑い状態は不快だろう。テニスやスカッシュの後などに自然と流れるいわゆる気持のよい汗、ではなく、ぢっとしていても汗腺からにじみ出る、それを分泌というのだろうが、そういう気持のよかない汗がだらだらと流れる。暑苦しいことこの上ない。はっきり申し上げて、不快、という二文字以外に思い浮かばない。不快指数が高い状態というのは、そういう状況にあるのだろう。

と、ここで矛盾を感じるのは、昨今のサウナブームで、サウナとは日本語で書いて蒸し風呂、そこはつまり蒸し暑い空間なのだ(と思う)。なのに、ブーム、だとかいって猫も杓子も「整いました」などとリフレな感じで、すこぶるいい調子だ。
まあ、サウナの空間はこれまた矛盾しているのだが、蒸し風呂であると同時に、それと同時に乾燥もしている、そんな不思議な場所である気がする。人は矛盾した存在らしいので、蒸しつつ乾燥している、というパラドクスに惹かれるのも自然かもしれないが。

それで思うに、もしかしたら、人は不快を求めているのでないか。
もっと言うと、不快のそのあとの、カタルシスではないが急降下的な安楽、その差異・摩擦に天国を感じているのではないか。

・・・何を書きたいのか忘れてしまった。

そうだ、不快というのはもっとうまい利用法あるのではないかなあ、ということである。
サウナの空間は暑苦しくて不快である。というと、そんなことはねえよ、俺は自ら進んでサウナに入り込んでるよ、なんでって、この後の水風呂がなんともいえず至福なのだ、そのために俺は自ら進んでその不快を享受するのだ。
などと言う人があるかもしれないが、その人に言いたい、もし水風呂はおろか、外気にさらされることもできない、できたとしてもゴビ砂漠のような灼熱と乾燥の外気であったとしたら、あなたはまだサウナにはまりこむだろうか。と。
おそらくそうなったらサウナに入る人はいない。昨今のサウナブームは、約束された安楽を絶対の条件としている。まあそれはいいとして、至極単純にいうと、サウナとは下降(ネガティブ)と上昇(ポジティブ)の作業であるといえると思う。

そこで僕は思ったのだが、この夏の不快指数、これはネガティブ・下降に属する感覚だろうが、これは下降である以上、上昇に転じることができるのではないだろうか。物事はすべて、二面性を宿している。はさみの利便性はもろ刃であると同じように。

つまり、蒸し暑さからくる不快指数をエネルギーに転じることができれば、これはすごいことではないだろうか。
蒸し暑さとはいわゆる熱運動であって、根っからの文系である僕はよくわからないが、ここには熱エネルギーが介在している。らしい。蒸気機関に代表されるように熱エネルギーはタービンを回す。タービンが回ると熱エネルギーが他のエネルギーに転換される。そうして機関車は動くし、原子力発電も同じ原理だと聞いている。

蒸し暑さはどこにあるか。それは人々の頭の上である。とすれば、人々の頭の上にどうにかして発電装置を取り付けることで、人はみな自家発電が可能になるのではないだろうか。本日、官僚が「節電してくれよー」とテレビの向こうで言っていたが、ひとりひとりが自ら発する熱で発電することができれば、エネルギー問題の幾割かは解決するはずである。
またこの熱源として、怒り、という感情も一役買うことになる。「熱くなんなよ」などと言われるあれだ。怒り、という感情はネガティブなものと捉えられがちだが、エネルギーへの転換スキームが確立されたならば、その価値はかけがえのないものとなるに違いない。
なにしろ、人の世のどこかで必ず誰かが憤っている。だからこそ人の世はささくれ立って、収拾のつかないものになっているのである。そしてその怒りからほとばしり出た上昇気流は電気エネルギーに変換されて、人々の利に貢献していく。それは途上国の通信教育に費やされるかもしれない、環境保護団体の照明になるかもしれない、あるいはスマホの充電に費消されていくかもしれない。
ここまで来てしまうと、グロテスクさだけが残るような気もする。
人間の感情がエネルギーとして換算可能になると、数値化しえない感情が数値化され、人は感情という資源を宿したバッテリーとしか見られなくなるだろう。人が人の精神を食い物にする世界はグロテスクである。

人やその行いは数字ではないはずなのだが。
換算が可能である、ということは恐ろしいことである。ファジイが通じない、ということは人間が通用しない、ということと同義だ。無垢な感情がないがしろにされるのと同じだ。それは新しいやるせない怒りを生む。その怒りを糧としてエネルギーが発生する。その発生に憤る。永久機関である。感情をエネルギー化する技術が発明されたとしたら、その時はもう笑うしかないかもしれない。

今日もまた、何が言いたいか分からず。

 

文責;不動産