俺はなんばんぼし

釣具屋と不動産屋の

第98回「宅建試・焼芋売・弁財天」

困った時の神頼み、なんて言って願いの実現を願う人がいるが、願いの実現を願うという日本語が正しいのかどうかはさて置いておき、神にとっては迷惑な話だと思う。だいたいにおいて困った時というのは文字通り字義通りまさに困っている最中だ。もし、もう少し前、そうね、少なくとも8日以上かね、頼むのだったらそのくらいの余裕をもって神も頼んでほしいのではないだろうか。8日あれば、どのようなタイミングであっても土日をはさむから落ち着いて家族会議ができるだろうと思われる。人々の願いはおうおうにして相反するもの。どこを立ててどこに泣いてもらうのか、それを検討しなくちゃならないのだ。神は。大変だなあ、神は。

などと、令和4年度宅地建物取引士資格試験の最中だというのに、そのような想念が脳中に渦巻いて、おれはまさにその時神に何かしらを頼んでいた。何度読み返しても問題文が頭に入ってこない。めくるめく混乱に陥っていた。

閑静な住宅街、おそらく周辺の建物的に第二種中高層住宅専用地域あるいは準住居地域かと思われるが、そこに試験会場の高校はあって、東京の高校はどこも新しいイメージがある中、その高校はわりあいガタがきている感じがあってどちらかといえばヒューマン的にガタがきている自分にとっては愛着がわいたのはいいのだが、困ったのは感染対策として開放された窓から侵入してきた焼き芋売りのおばはんのボイスである。

1に効率、2に効率、サンシも効率、5も効率、6も・・・と不可思議まで続いていくような効率重視社会のさなかにあって、そのおばはんはいったい何を考えているのだろうか、別に聞きたくはないのだが聞こえてくる限りのそのボイスの感じ、おそらく地声であった。がために、セクションごとに調子というか、良い感じの「い~しや~きいもぉ~」の時と、若干ガタついた「い~しや~きいもぉ~」の時がある。業界の話はよくわからないが、こういうのってテープとかそういうのを使うのが主流なのではなかろうかい。廃品回収や宣伝カーなどから女の人の声が聞こえてくるな、と思って車をみたらおっさんが一人で運転している様子で、人件費の削減・ボイスの調子平均化を果たさんとして機械に頼っているのだなあと思った記憶がある。要するに効率化、ということで今はそういうのがモードなはずだが、おばはん、あんたにはそういう効率化の志向がないのか。おばはんもまた、ガタついている類の人間なのだろうか。とまたも親近感を抱きそうになったが、どちらかというと怒りの方が勝ってしまって、おばはんを厭悪する自分がいた。
なんでこんな時に焼き芋なんて売ってんだ、確かに最近すこし涼しくはなってきたが、往来をみると若者はまだ半袖でぶらついているのであり、別に往来をぶらついているのは若者だけではなくそのほかの年齢層もぶらついていて各自勝手にファッションしているから中には、なにか羽織りものを、とかなんとか言ってカーデガンみたなものをひっかけている御仁も中にはいるが、とりあえず今でなくてもいいではないか。
焼き芋を積極的に宣伝する、焼かれた芋のすばらしさを世間に発信して笑顔とつながりを増やしてゆく、そうすることで世界の生活にさりげなくかつささやかなハッピーを配布してゆく、地球の幸福度の総和を没論理的に増大させてゆく、というような計画があるかどうかは知らんが、そんなに宣伝しなくてもいいじゃないか。こっちはあほな業者が広告違反をしたのかどうか正誤をこたえなければならんというのに。

為替レートのように上下するおばはんのボイスが、脳みそを刺激する。脳内では、あほな業者が「じゃ、自分はこれで」みたいな感じで手を手刀のようにして退散しようとするのを慌ててつかまえて柱に捕縛しようとしていると、曇天の空から光のように降ってくるおばはんの焼き芋ボイスに脳がまた犯され、つい離してしまったあほな業者をまたこら追いかけ捕まえて捕縛、ボイス、捕縛、ボイス・・・
の輪廻に落ちてしまったようで、自分はもう神に頼むしかないと思ったのだった。
そう、神に頼む話をしていたのであった。おばはんによる脱線が著しい。

神頼みをする人は多いが、その後、神にそのことを報告する人はいったいどの程度いるのだろうか。
祈願が成就したら、もう、あははって感じで神に頼んだことなど1年前の今日の昼食に何を食べたかってことよりもはるかかなたに忘れてしまうことが多いのではないだろうか。そのように思うからには、自分にも思い当たることがあって、ガタついている人間である自分は日常的になにかしらに困っており、まじでたのむわー、と誰にいうともなく思うことが多い。頼むという行為は、頼まれる客体があってはじめて成立する行いと思うがどうだろう。そして、この、まじでたのむわー、と頼んでいる時なにに頼んでいるかといえば、今さらに思うに、おそらく神に対してなのだろう。まじでたのむわー、と頼んでいる時に頼んでいるあっち側になにか具体的な存在をイメージしているわけではないが、その曖昧な感じを拾ってくれるのは全知全能の神しかいない気がする。
そういうわけで自分は日々生きていく中で数限りなく神頼みをしてきたのに、ガタついて頼りない感じになっているというのはなぜだろうね、と考えてみた。それで思ったのだが、アフターフォローを無下にしてきたのではないだろうか、自分は。
いくら神といっても顧みられないのは本意に反するところだろう。アフターフォローの有無は次回以降のサービスにつながる。アフターフォローをせずに頼みっぱなしにし続けてきた結果、自分は年を重ねるにつれガタついてきたのだが、それも道理だ、と今は合点がいっている。

とはいっても試験会場で神頼みのアフターフォローをするわけにはいかず、自分は焼き芋のおばはんを呪詛しながらマアクシイトをぬりぬりして、帰途についた。途中、立ち飲みでナマコのマリネを食べつつ競馬中継を見ながら麦酒を2杯飲むようなこともしたが、ほかには目もくれずに直帰して、賃借しているアパートの近くの弁財天を参った。果たしてこういう場合弁財天でいいのだろうか、という疑問も胸中に湧くにはわいたが、弁財天であっても七福神の一角におわしますし、一番身近にいる神様ということで弁財天。嚢中の小銭が500円の玉がひとつと1円の玉がみっつしかなかったので、それを賽銭箱にすべて放ってなにかしらを祈った。
そいで、弁財天だけでは物足りないわけではないが、かつげるものはかついでおきたくなり、近所のトンカツ屋の門をたたき、今更ながら定食をそういって食べた。2000円。弁財天への布施よりもトンカツ屋に支出する金額が高くて、弁財天に申し訳ない気持が少しある。

 

自己採点の結果、おそらく合格と不合格の瀬戸際を彷徨していると思われる。合否発表は1か月後だ。
まだしばらく神頼み、およびアフターフォローをしていこうと思う。

文責:不動産屋

 

P.S. やはり弁財天の彫刻とかを買って部屋に飾った方がいいのだろうか。