俺はなんばんぼし

釣具屋と不動産屋の

第107回「身体環境および精神環境」

人間の五感(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)のうち、人間の記憶にもっとも深く刺さり喚起されるのは嗅覚だそうな。

だからなになのだ、とも思うが、帰途に通る建物のことが想起される。
この建物は昭和な感じの佇まいで、見た感じ笠辺哲の漫画に出てくる研究所のごときなのだが、その前を通過するたびに漢方の匂いがする。なんたら薬剤のかんたら所、という表札が掲げられており、この中ではなにかしらの薬が調合されているものと思われる。

前を通過するだけで漢方の匂いに気づかされるということは、その室内の匂いはより強烈なものに違いなく、中の人々は常日頃漢方を摂取していると同義な状態なのではないだろうか。
漢方は人体によい、と基本的にされているため、もしかしたらここの従業員はめたくそに漢方が身体に浸透していて、自然と頗る健康なのかもしれん。意図せずして、メリットを享受している。
そう思うと、一日の大半をルーティーンに過ごす環境というものはとても大事なものに思えてくる。

これは別に漢方のように物理的に体内に入るものだけではなく脳みそ、知識にとっても同じことがいえるだろうと思われ、釣り具メーカであればおのずと釣り具や魚に詳しくなるだろうし、小売に身を置けば庶民的な金銭感覚やトレンドに敏感になるだろうし、大工であれば木材供給の現状や国産と海外輸入物の事情や戸建て建築の動向に気づくことがあるだろうし、編集者だれば世間の関心や文芸の推移みたいなものにある程度精通することだろう。

そして自分を顧みるに、不動産。この環境にいてあたしは何を摂取したのだろうか。身についたことといえば、賃貸物件の退去時に取られる原状回復費用算出にあたっての交渉の粘り、くらいなもので、なんだかな。

第106回「句読点のつけ方が最近分からなくて」

この6年というもの、というのは勤め人として平日の3分の1以上を費消するようになってからこっち、日々の終わりが敗北感によって占められている、というのはどういうことなのだろうか、労働とは敗北なのだろうか、働いたら負け、みたいなことをおっしゃっている御仁(自称NEET)が昔いたが、彼もまた彼なりの事情で労働を開始しているらしいね、彼もまたやはり敗北感で日々を埋めているのだろうか、でも自分の言っていたことがその通りになったのだとしたら、それは万能感っていうか、ほらね。みたいな世間と自分が合一したような、してしまったような感じがあったはずで、それが倖せなことか不幸なことか、俺はそれは知らん。

働くことは負け、なのだろうか、などと考える前に考える必要があるなあ、と思うのは果たして自分が今「働いてるぜー」と思っている行為はホントに労働と呼べる物事なのだろうか、そこから俺たちはスタートすべきなんじゃないだろうか、ということで、労働・働く、とはいったい又はぜんたい、なになのだろうか。すると、どこからともなくおっさんの権化が脳内に立ち現れて、「働く、ちゅうことはだ、はたをらくにする、中華の文字で書けば傍を楽にする、つまり周囲の役に立つことなんだよなあ。はたがはた同士で互いに楽にしあえば、社会はうまくまわるんだよなあ、ウン」などと諭してくるが、そんなことはどうでもよい、そんなこじつけを俺は聞きたいのではない、仮におっさんの言う通り周囲を楽にすることが働くことなのだとして、俺がやっていることが果たして他の誰かを楽にしているのかどうか、それが分からない。消費社会に寄与することで株式会社は経常利益を確保し、資本を爆増させた株主連がうはは、って資本拡大の虜となって結果的に消費社会の消費を加速させるにいたり、長い目で見れば貧富格差の深刻化、地球環境破壊の深刻化、人心精神荒廃の深刻化、行政府迷走の深刻化、など陰な影響が予想される可能性がある気がしているのだが、これが果たして周囲を楽にしている、と言えるのだろうか。

だいたい、周囲を楽にする、とはどういうことなのだろうか。自分を存在させるだけでまず俺は酸素を費消し二酸化炭素を排出している、自分が延命していたいという勝手な欲望それだけで周囲の資源を消費して悪性物質を撒いている。しかしこれを辞めるためには自ら泉下に向かうほかになく、その覚悟もない自分がどうしたら一番周囲を楽にできるのか、と考えてみると、自分個人の存続のために費消せざるをえないものを自ら生産する環境に置くほかなく、人里離れた深山にひとり、自然薯とか山女とかを採って生きるしかない。植林などもこれ、して。これが傍を楽にするいちばんの方法なのではなかろうか、自分の社会的な濃度を極限まで薄めることが最良ではないか、なんて考えたが、考えてみるとそうなってしまったらそれまでの人間界での傍はもはや傍ではなくなっており、新たに樹々や川魚や空や猪などが傍に代わるのだが、樹々を多少切り(植林しているとしても)、野生生物の命を奪って自らの糧として、空は・・・空に対しては特に何もしていないんじゃないかなーと思うが多分影響を与えてしまっていて、もしかしたら自分という存在は存在するだけで傍を楽にするどころかその逆なことを傍に施してしまう、そういう奴なのでは? エントロピーを体現する存在なのではないか、おれは? みたいなことに思い当たるに至り、今のところ俺の行き止まりはここららしく、これ以上の思考ができない。

思うに、最終的にだめになっていくことにどうしても抗えないことに対する、将来的な敗北感を感じているのかもしれないね、って考えを荒川の流れに乗せて母なる大海に泣きつきたいような気がしている11月上旬のある晴れた夜空に下弦の月が浮かんでいた日でありました、今日は。

 

文責:US法人のSecretary兼Directorに馘にされそうな不動産屋