俺はなんばんぼし

釣具屋と不動産屋の

第110回「読書感想蚊」

酔いに任せて前髪を裁ってから後、会社にてくてくと行くと反応が二つの派閥に分かれるようであって、ひとつは「お前は果たしてふざけているのか、金を出してやるから駅前のカット専門店で適当にやってもらってこい」という派閥と、もう一方が「お前は果たしてふざけているのか、奥行きがなんだかすごいことになっているではないか、社会的にこのままでいい気はしないがその方が面白いので、それは私が。だからそのままでいてくれ」という派閥である。
どちらかというと後者にシンパシーを感じるので、前者の直上などは無視を決め込んで日々を生きていきたい。
そして現PJ(プロジェクト。とはいうものの、終わり・完了・クロージングが見えぬ。こうしたものをぷろじぇくと、と呼んでいいのだろうか? なんて残響がワンワン泣いて…空洞に洞穴に)が消滅し次第、ネクタイを荒川に投げ、スツを中川に投げ、会社貸与のアイフォーンを隅田川に投げ、それが鴨や遊覧船などに的中するなどしてサラリーマンのピリオドを打ちたいなあ、打って差し上げたいなあ、と思う今日この頃である。

 

昨日、高瀬準子の「いいこのあくび」を読んだ。ウーム。という感じであった。
高瀬氏の詳細な経歴来歴は知らないのだが、その作品を読むに、おそらく中小企業または大企業の子会社で働いていた経験や実感や葛藤が作品に生きていると思われる。が、作品の醸す雰囲気がその延長線上にいまだ在る、ような気がして、なんだか日記のような感覚がある。のは私だけかもしれないが、とにかくそういう感じがしてしまって、読後、これはいったいなんなのだろう。という気持になってしまう。

でも、そういう生な感覚が、実況的な感覚が今の世の中に受けているのだろうか。などとも思う。

あと、橘玲の「世界はなぜ地獄になるのか」も読んだ。スティーブン・ピンカーやコリンズは「現代はそんなに悪くない」というが、私は人類のエントロピーを強く思う。それは自らの頭脳の限界なのかもしれないが、混沌が重なる混沌の中で混沌と混沌が混ざり合い混沌の混沌による混沌のための混沌による混沌のための混沌による混沌のための混沌のための混沌のための混沌のために混沌として混沌の混沌、のうえに混沌、に重なる混沌、そして混沌、みたいなコンプレックスを感じるぜ。私なんかは。世界は複雑になってゆく、多様性を主張し、主張された多様性によってネオ多様性が生み出て、ネオ多様性はその先の新たな多様性を生む。そして新たな多様性は未知なる多様性を生む。多様性が層を成す。復元不能な層を成す。
橘玲の本の良いところは、明快な結論を出さないことだと思われる。自分が阿保で結論を読み取れていない可能性はあるが。

 

不動産(32)

第109回「バースト+ポチャッコ=サモハンキンポー」

嗚呼、分かってくれとは言わないが、そんなに俺が悪いのか、ってララバイを荒川に投げたいような、今日もそんな一日であったが、荒川は、っていうか江東区および墨田区ならびに台東区そして足立区などは2024年12月5日夜、雨が降っており、と書くと東京都23区の東側一帯しか雨が降っていなかったような捉え方もこれ可能で、人によっては地球上の他の地域でも同時刻に降雨があるのではないか、少しばかり視野が狭いのではないか、っていうか江戸川区はどうなんだ、などと眉間にシワを寄せて宣ってくる人があるかも知らん。私が悪かった私は悪かった、世界中のどこかでおそらく降雨に見舞われ、あるいは僥倖を感じ、あるいは冬の雨に濡れそぼって背をまあるくし、またある者は夏の雨に潤うひび割れた大地をみて俺ハッピー、みたいなグローバルな感じで、別に東京都23区東側だけではなくオールアラウンザワールド的に空から水分が塊となって落下していた、そんで荒川放水路のほとりに立っていた自分にももちろん、その背にも肩にも雨が落ちていたのであります。

というか、ヤパリ、俺が悪いのだろうか、悪いのだろうなあ、やっぱり。
自分はまず間違いなくサラリーマン的に、働き奴的に無能なのだが、己の無能に自覚的であるならばその事実を上司なり社長なり会長なり株主連なりに訴え出て、「あのですね、正味の話、自分は無能であります、がために業務に滞り、いわゆる停滞っていうかですね、とにかくよくないんすよね、状況的に。お客さん待たせるし。稟議に30営業日くらいかかるし。管理方はフォーマットとやらの死守墨守に未来永劫こだわっておるし、意味というものがわかんないっすよ。正味の話。それなもんで、どうしたらいいのかなあと無能なりに考えてみたところ、おそらくは人員を増強する、代替者を立てる、など人事的な試みが必要なのではないか、っていうか必要なんすよ、思うんすよ、個人的には」などと早口でまくし立てて、部署体制の再構築・組織全体を俯瞰した人員配置などをボトムアップで促すべきなのだが、そしてなるべくそうなるように陳情しているのであるが、そうならない、そうなっていないというのは、てめえが結果的に無能者だからなのだろう。

などという妄念・概念・想念などが頭脳の灰白質を満たしているために、なんだか自分は私はあたしは自暴自棄、マニヤな舶来者でなければ読めない読み方をすると「ヤケ」になっているのであり、なんでかは知らぬがバーバーストライキ、いわゆるバーストに及んでいる。及んでいた、今日まで。

バーストとは字義通り文字通り、散髪に行くという人間自然の営みを意図的に我慢することで祈願・念願・切願などの成就することを神仏に希うことであるが、バーストをしていても当然髪は伸びる。そして邪魔になる、特に前髪が。自分は常に下を向いてうらうらと生きているタイプの人間なので長い前髪は重力に負けて常時垂れ、エモ系かつゴシック系のような相貌になり、いちいち手で掻き上げるのもしちめんどくさく、シーエムで見るような美形タレントがさらさらって感じで首を左右にいなす仕草、これを意図せずに身につけてしまったところ首を痛めた。
そうなってみてふと思うに、なぜバーストをしているのに状況はちっとも好転せぬのだ? もしかしてもしかすると、バーストに大願成就の効験はないのでは? このことに気づいてしまったらもう早く、棚の文具入れにあるハサミを手に、このハサミはポチャッコの絵が描いてあるのだがそれはどうでもよい、鏡の前に立ってざく、って感じで前髪を切り落としたぜ。鏡面を見ると、若き日のサモハンキンポーのような髪型の男が立っていて、明日の上司の顔が楽しみでならぬ。AM3:07。今日だぜ。