俺はなんばんぼし

釣具屋と不動産屋の

第Еν回「2021年3月28日 自分が食べたものくらい/ブロイラー畑の混沌」

昨日の朝食を思い出せますか、などと問うてくる人がたまにある。朝食は食べたのだが、何を食べたのかまでは覚えていない人が多いから、こういうテンプレートができたのだろう。確かにまあ、それはあるだろうな、と思う。自分も先の食事内容を思い出せない事はしばしばあった。これだけでも食べ物に対して礼儀がなっていないと思うが、さらに失礼な事が自分に降ってわいた。今朝気づいたことには、昨夜、晩御飯を食べたのかどうか、わからない。腹が空いている感覚がなかったが、食べた気がどうもしない。しかし、断言ができなかった。慄然とした。というのは、自分の食に対する意識の低さにである。

食とは、なんて語るのは口幅ったいがまあ書こう、食とは、畜肉を食すのであれ、植物穀物を食すのであれ、基本線として他を殺す事の延長にあるものだと思う。自らの生命の踏み台、よく言えば糧と成る存在と、それを殺める行為を意に介さぬ、記憶に残していないという事は、めちゃ罪深い気がするわ、私。だから今日この日から、その日食したもの達を記録しようと思う。じゃあ記録するわ。

朝:無
昼:五目おこわ
夜:野菜スープ

と記録してみたが違和感がある。五目おこわには五目、すなはち人参や蒟蒻、餅米などで構成されているが、それらについて書かれていない。これは例えるなら、戦国の合戦で敵国の兵隊をやっつけた人が「歩兵を5人やりましたよ」と答えるようなものだと思う。やられた5人はそれぞれ、田吾作、五郎兵衛、吉備乃介と名前があるはずだが、それらは注釈されず、一介の歩兵として死んでいった、ということになる。それは寂しいんじゃないか。やっつけた者の背負う実感としてもそこまで重くならない気がする。
どうせなら、やっつけた側、征服する側、生命を頂戴する側の背負うべき重みを実感すべきだろう。だから記録しなおすと、

朝:無
昼:五目おこわ(人参、牛蒡、蒟蒻、餅米)
夜:野菜スープ(キャベツ、もやし、白ごま、中華スープの素)

五目おこわなのに四目しかないのはどういうことか、と聞いてくるひとがいるだろうがしょうがないじゃないか、本当に四目しか入っていなかったのだから。そんなことはどうでもよく、問題なのは野菜スープなんだ。中華スープの素にはブロイラーが犠牲になっているはずだが、そこまで記載すべきだろうか。この問題については今、自分の中で賛否わかたれて議論が交わされている・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・、答えはまだ出ていないが、「中華スープの素の素を記載するのは、現実的でないと思うナー」という反対派の意見によって、ディスカッションは定まろうとしている。
反対派いわく、「中華スープの素ははじめから中華スープの素であったのではなく、ブロイラーやいろんな野菜蔬菜が混合されてできている。しかし、ブロイラーやいろんな野菜蔬菜もはじめからそれらとして存在していたわけではなく、ブロイラーは雑穀やワームなどを食べて成長したのであろうし、野菜蔬菜もまあいろんなものを体内に取り込んで成長した。すでにそこに犠牲があったのだ。しかも、それら犠牲の下にはさらなる犠牲があったにちがいなく、それらすべてを記載してゆくことは不可能だろう」とのことである。
確かにそうだなあ。しかし、ウーム。でもさあ。などと右往左往して、「記載するは食材として一般的に認識されている単位物までとする」ことで決議に至った。料理本や料理番組のレシピに出てくるような材料の感じで書け、ということである。議長が槌を振り下ろして閉会を告げた、「これにて閉廷!」。
議場をでてゆく人波の中で、ある反対派がぼそりとこぼした。「一般的ってなんだろうね・・・」。

っていうか、一般的、ってなんなんだ?! 気づけば別の議場で、一般的、についての議論が開始されていた。っていうか、されている。「相席みたいなものじゃないか」という声、「ベン図の重なり合う所みたいな感じ」という声、「相席にしろベン図にしろ、どこかに境界線が明確にあるはずだがそれはどこなんだね」という声。「まさか線が引けないわけじゃないだろうね」という声。「ええ、でもそれはほら、ねえ」という声。穏健派、中立派、保守派、過激派、ロマン派、改革派、耽美派自然派、現実派、などに分かれもつれて、それはブロイラー畑のような光景。

PANIC!

 

文責:むかし仕事で行った養鶏場で、箱詰めにされたブロイラーがトラックで運ばれていく光景を見た不動産屋