俺はなんばんぼし

釣具屋と不動産屋の

第40回「なぜ勉強をする必要があるんだい」

もし、将来子供が出来たとして、

「なあ、なんで勉強しなきゃいけないんだい?」

と純真無垢な目で問われたら、答えに窮してしまう自信がある。

いいから黙って勉強しれ!と頭をごつんと殴ってしまえば済むかもしれないが、子供の素行は悪くなることが予想されるので、良策とは言えないだろう。

ここでいう勉強というのは、国とかの教育要領に則った学校での科目を学ぶ、という意味である。

 

自分のお勉強経歴は、小学生4年生のころから学習塾に通い、私立の中学に入るためにお受験をした。中学、高校時代は全く勉強をしなかった。特に部活に熱を入れるわけでもなく、のんべんだらりと過ごしていた。勉強しなくても成績は良い、みたいなタイプでもなかったため、当然勉強しないだけ成績は悪かった。偏差値とかいう統計指標によると40を切ってた。

 

自分の両親と膝を突き合わせて、どういう教育方針で僕を育てていたんだい?なんて語り合ったことはないから推測なるが、おそらく私の両親はいい大学に入っていい企業に就職してある程度豊かな安定した生活を送ってほしいと願い、学業に多大に投資をしてくれたと思う。とても恵まれてますね。

自分には兄と姉が一人ずつおり、この二人は両親の期待に応えて非常に学業優秀であった。一方私はあんぽんたんな性格をしており成績も悪かったため、両親はほとほと参っていたと思う。

まあ、とはいえ、我が家の教育方針に従い、嫌々勉強をしていた。そして私は本当に勉強が嫌いだった。今も好きではない。

小学校の時は中学受験をしない友達が大半で、放課後に遊べず、なんでわたしゃこんなつらいことを?と当時疑問に思っていたものだ。なので、切実にこの問題に対する解を提示する必要がある。

 

現在私にはこの疑問に対する答えは思いついていない。

もちろん個人的には勉強をしたほうがいいと考えは持っている。

なんでかっていうと、脳みその発育に非常にいいような気がするからだ。何かを覚えるという事、知的好奇心に駆られること、幾何学的な図形や数式を考えること。国語算数理化社会。あと体育。バランスよく脳みそが鍛えられるような気がするのね。また、物事を体系立てて考えるってのも大事だと思う。大変厳しいことに、大人になると解がないことが多い。仕事とかでも解はない。解に、理想に近いと思われるものに対して訳も分からず仮説を立ててトライアンドエラーを繰り返して、収束させていく。その過程で経験を積んで改善を繰り返して、みたいな。こういう作業は生きていくうえでしていかないといけない事だと思う。大人になってお金を稼ごうと思うと、会社員だろうがプロ野球選手だろうがyoutuberだろうが、そこは一緒だと思う。もちろんそれぞれ種類、質、量など違いはあると思うけども。勉強は一応解があるけど、その習慣を身に付ける練習になると思うからだ。要は将来、大人になって一人で生きていくための、国から与えてもらえるに訓練なんだと思う。

でも、たぶんこういう事じゃないんだと思う。

将来のため、とか、分からない事を自分で調べて解決する練習だとか、一般常識がないと大人になったら苦労するとか、あるいはいい会社に入るため、とか。それって年齢を重ねないと分からないから、今の自分は、まあそうだよね、と理解できる。勉強は役にたったな、と思う。

ただ、子供には理解できないとも思う。なぜなら、子供はそういう状況を想像できないから、そういう立場ではないからだ。

いくら将来のためだ、とごたくを並べても、ふーん、そうなん?と分かったような分からないような返事をするような気がするのね。もちろん真剣に話をすることは大事だと思う。そうすれば、やや、何かご両親が真剣に話をしているから、これは聞いた方がよさそうだぞ、と判断してくれる可能性は高いし、それで十分な気もする。ただ、子供の目線に立った、勉強する理由をイメージしやすい答えってのもある気がするしできれば見つけたいと思う。しかし、これは永遠に超えられない壁なのかもしれないとも思う。

 

 というわけで、現在私には答えがないのだ。どうしたら伝わるのか。そもそも私の考えは一般的ではないかもしれないし、はなはだ的外れかもしれない。が、まあ、個人的な考えであって正解とか不正解だとかではないのだ。そこは最近自信を持てるようになってきた。うん。

出来ればこの疑問に対して答えを見出していきたいと思っている。

 

 

または、ちょっと違う答えとして考えつくものがある。なぜ勉強をする必要があるんだい?なんていう疑問がわいているという事は、その本人が勉強をすることが嫌になってしまっているからではないか、と思う。

従って、この疑問がわかないようにする事も、一つの回答な気がする。もちろん疑問の答えではない。しかし、疑問自体が浮かばなければ、浮かばないようにすれば、その子供の問題は解決されるのではないか。本来的には、このように誘導することが、教育の在り方として先決な気がしてきた。

いや待て、盲目的な事は非常に危険である。疑問がわくことこそ大事だと思う。その方向はほんまに正しいのかいと。

ようやっと気が付いてきた。この文章を考えている私の出発点が勉強が嫌いだから、という前提で始まっている。

勉強というものは、嫌々やるものではなく、おのずと興味をもってできた上で、純粋になんで勉強をするのか?と疑問がわく、みたいなのが理想的な脳みその発育なんでしょうか。

その場合、自分の考えを話せばいいだけな気がする。他人の子供は知らないよ。自分の子供に対してね。私はこういう考えを持っている、あるいは国の教育要領を一緒に読めばいいのかもしれない。喧々諤々議論すればよい。

私がこの文章を書こうと思った要因は、なぜ勉強にをする必要があるんだい?に対する答えを考える事ではなく、嫌々勉強をしないでほしい、という願いだったのかもしれない。そういう事か。嫌々やる、嫌いなものをし続ける、ということは非常に苦痛なのだ。

 

勉強をする事が嫌い、という状況を回避する事を真っ先に考えなければならない。そういう事か、勉強を嫌いにならない方法を考えるべきなのかもしれない。

 

なんで勉強を嫌いになるのか。

 

勉強をしたかどうかは、テストとそれに応じた成績、という評価指標がある。こいつがいいと、目に見えて勉強したね、頑張ったね、となる。数字はとってもわかりやすいからだ。しかし、これはその本人のポテンシャルや誕生日の要素もあることを忘れてはならない。残酷なことに生まれ持って理解力が速かったり、テストで良い点を取る効率に目をつける子が確かにいる。また、3月生まれの子に対して4月生まれの子は脳みその発育に1年多く費やしているためかなり有利だろう。つまり横軸西暦の時間、縦軸脳みその発育としたグラフを作るとしたら、成長曲線の傾きも急峻な子もいれば穏やかな子もいる。また、学年で区切るとしたら、成長曲線の傾きは同じくしても、誕生月の違いにより、いわゆるy切片はおそらく4月生まれの子が高い値を取るため、ある月日を切り取れば誕生月が早い子の方が脳みその発育は高い値を取りそうだ。最も差が開くのは、4月生まれで成長曲線の傾きが急峻な子と3月生まれで傾きが穏やかな子が同居したときだろう。この時、3月生まれの子がいい成績を取れない場合、勉強をしていない、という評価が下せるのだろうか。

また、一方で努力みたいなもんもある。本人は宿題もこなすし、授業も真面目に聞く。テスト勉強もしている。しかしいい成績が取れない。こういった子に、もっと勉強しれ!と言ってしまわないだろうか。本人は勉強しているのに、いい成績が取れないと評価としては勉強をしていない、という事になってしまうのではないか。逆に効率のいい子や頭のいい子はちょっと教科書を読んだら、テストの成績が良いため、勉強をしていなくても、勉強をしている、となるような気がする。

親の立場として、注意深く子供に意識を向けていれば、勉強をしているか否かはなんとなくわかる気がする。しかし、成績が伴わない場合、ついつい勉強しれ!と言ってしまうような気がする。

何が言いたいかというと、勉強をする、といい成績を取る、を分けて考える必要がある、という事だ。ここを分けないと、親の言い分とこの認識がずれて、勉強嫌いになってしまう気がする。

つまり、勉強をしている、していないの指標を成績にゆだねないほうがいい。ゆだね過ぎない方がいい、という表現にしよう。そうすると、勉強が嫌い!になりづらい気もする。もちろん個人的な経験則だ。私の個人的な経験に基づく見解である。

 

あるいは、子供というものは親の姿をよく見ていると思う。 真似をすることで脳みそを鍛えていると思う。そのため、家にいる親をよく見ている。その親は勉強をしているだろうか。勉強をしている姿を見せているだろうか。もちろんこの場合学業ではない。何かしら学ぶ姿を見せていないのに、やってない人物から勉強しれ!と言われてもなんだかなあ、と思ってしまう気がするのだ。もし、なんでもいいから、勉強する姿を見せたり、あるいは、私はこれを、あなたは学業を、みたいに勉強する時間を共有できたら、楽しく勉強をしてくれるような気がする。

 

 

なんともまとまりのない文章である。書きながら考えているため当然だ。

まあ、今日はここまでとします。

 

 

文責おがさわら(大阪、30、無職)