俺はなんばんぼし

釣具屋と不動産屋の

おがさわらの帰還

夢を見た。

 

映画館の夢。

大学の学部の時分の夢なのかな。

 

登場人物はごちゃごちゃ。

大学の授業で映画館に行き、映画を見ることになった。

授業で映画を見るのに、チケットを買って席を取らなきゃいけない夢だった。

 

席はどんどん埋まっていく。

 

古い友人が3人。

映画を見ようとする人もいるけど、彼らはナポレオンをするために先生から見えづらい席をすでに確保していた。あいつは何をしてるんだと、私を話題にしてくれていた。

 

自分はまだチケットを買えてない。席を確保できていないのだ。

 

チケット売り場にはドンドン人が来る。

ほぼ同時に来た人に譲ってしまう。

それを見た人にクスクス笑われる。

 

チケットを買った。

 

自分は映画を見たかった。

 

席まで遠い。

良い席はどんどん埋まっていく。

 

皆駆け足で席を取りに行く。

三木さんが後ろから話かけてきた。

 

ちょっと気まずい。

 

ドジポス君の話だった。

ドジポス君が世界史の事で自分に聞きたい事があるらしい。

自分に世界史のイメージありますか、と三木さんに聞くと、

 

三木さんは、ないね、と笑っていた。

 

僕も笑った。

 

彼は訳が分からない状態にあるんでしょうね、と笑った。

 

ここで目が覚めた。

まだ眠いな。寝ようかな、と思った。

  

毎日は繰り返しダナと突然思った。

一回寝ると、意識が飛ぶ。 

朝目覚めると、また一日が始まる。

 

 

最近時間についてよく考える。

 

先に進んでるように見えるが、実はそうではないのではないか。 

イメージは、やっぱり円運動。

 斜影すると、単振動してるってやつ。

時間もそうで、同じところを振動しているのだろう。

ただただ繰り返しで振動している。 

 

 

じゃあ、なんで時間が進んでいるように感じてるか、というと、

日付とか未来とか過去って言葉、時間に関する言葉があるから、時間が進んでいるように感じる。

 

でもそれって相対的なものだから、もっと絶対的なもので感じるものは何か。

自分の体が老化しているから?

いや、ミクロに見ると、毎日の繰り返しによる老化は微々たるもので気が付かないよね

 

繰り返しの回数を記憶しているから。これじゃないか。

繰り返している回数が増える事を認識できるから、ああ、もう100回繰り返したな、とか、1000日繰り返したな、とか記憶の蓄積によって、前に進んいるように感じるのだろう、と考えた。

 

ここで、じゃあ今、自分は繰り返しを認識しているが、それは何によってか、世界を認識しているのは何か、と思うと、視覚によるものが大きいな、と思った。

 

目が覚めると、目を開ける。無意識から覚醒状態になった時目が開く。

そして、ああ、自分は目覚めたんだな、と認識する。 

ここで、じゃあ目が見えなかったらどうだろうと思うと、音で認識するのかな。

耳が聞こえなかったら?匂いかな。

鼻がきかなかったら?

触感かな。

 

五感がない人っているのかな。

 つまり、世界を認識する機能が備わってない人は、どうやって目が覚めた事を認識するのかな。

それでも、意識がある。そうすると、なんか説明のつかない第6感みたいなので世界を感じ取れるようになっているのかな。

 

本来的には多分そういう人は生存できないけど、現代日本なら五感がない人はいるかも。

 

でも確かに、自意識というものがあるから、その人は生きてるんだ、とおもんだろう。

生きるとは、我思うゆえに我あり、とデカルトだか、カントが言っていたが、まったくその通りだと思った。

言葉や知識として、知っているが、僕は、このような過程で、そうなのだろうと思った。とうとう哲学者と肩を並べたわけだ。

 

 

また、思考が飛んで、映画なり、漫画なりでループものが面白いと思うのは、毎日を繰り返してる、と共感できるからだ。

毎日が繰り返しなんだ、と言語として自覚しているか否かはおいといて、全員が無意識下では認識しているはずだ。なぜなら実体験として行われているから。

 

共感、という言葉で片づけるのはどうかと思うが、日々を生きる、という共通の事象をみんなが行っているため、ループもの、というだけで共感が生まれているのかも、と思った。

 

生きるとは繰り返し。

 

またまた、思考が飛んで、じゃあ、どう生きるのかってこと。

 自分とは観測点で、どうやら、視覚とか五感に頼って世界を認識している。

 そんでもって記憶というもので観測したものを記録していく。

 その時、観測したものを、こう感じた、だとかこう思った、とかして、味付けして記憶していく。

 この味付けの仕方が性格なのだろうなと思う。

 

んで、この記憶の蓄積回数、(ここで、カレンダという枠組みに少し懐疑的になっているが、やはり太陽の周期、一日と世間が呼んでいるものを自分も観測しているため、認めざるを得ないこととしよう)何日たったか、何回一日を繰り返したか、を認識すること、記憶している事を認識している事が、時の流れなんだろう。

なんで年を取ると時間が加速すると思うのか、というと、同じようなものは、その前に起きたことを参照するようになっているのではあるまいか。

 

例えば、10日前、と5日前に、非常に似たような観測をしたとする。

 

すると、この5日前の出来事ってのは、10日前のものを参照する。

つまり本来は10日分記録されるはずが、10日前と5日前は圧縮されて、9日分の記憶しか残らない。

カレンダー上は10日経っているのに、記憶では9日間分の記憶しかない。

この一日のズレ、が、年を取ると時間がどんどん加速していくように感じる理由な気がする。

 

んじゃ、そのもともとある10日分の感覚ってのは何か。

基準となる感覚は何かっていうと、やっぱり幼少期の成長過程なのだろう。

幼少期は、一日に起こる事を一日で記憶しきれない。

毎日飯食って、遊んで、寝て、の毎日を繰り返し、ちょっとずつ記憶していく。

これを積み重ねていくと、年を取って、いろんな観測による記憶が蓄積される。

もちろん風化して忘れるものも多いが、この参照する日が増えていく。

 

毎日が退屈な人は、同じ一日を繰り返しているから、非常に時が経つのが早い。

 

んじゃあ、どうしたらいいか。

 

どうしようもない。

 

でもよりよく生きたい。

 

まずは、生きるとは毎日の繰り返しで、明日、どのようにその一日を繰り返したいか、と考える事が一番大事な気がしてきた。

今を生きろ、とか、今が一番大事、とかよく言われていわれているが、次の繰り返しに備えた戦略的行動をとれるのが、今、でその指針になるのが明日。

どう生きたいか、という思考、戦略を練る場合は、明日の事を考えて生きてりゃいいんだろうな。

 

明日どういう一日を過ごしたいか。誰と朝目を覚ましたいのか。誰と食事をとりたいのか。

 

今は観測点に過ぎない。 

老後の事とかどうでもいい。

明日、どのような状態で繰り返しを行えるか、が大事なのかなん。

積み重ねの先なので、最終的には老後の世界になるかもしれないけど。

言葉が悪いっすよね。メチャメチャ省略がある。

 

どういう繰り返しを過ごした末に、老後をむかえるのか。

 

え、みんなこれ当たり前に思ってること?

 

 

新しいことに挑戦するのは良い事。

出来る事が増えて明日を迎えるのは良い事だと思うから。 

どういう明日を迎えたいのか。

 

現状の明日、が嫌だったら、観測点の状態を変えるしかない。

 

土地だったり、仕事だったり、人だったり。

 

じゃあ、どういうのがいいの?

 

こればっかりは人によるよね。

自分の場合は、どういう状態の明日を迎えたいのだろうか。

 

今の自分について。

 なんとなく、自分は人とワイワイするのが好きだなあ、と改めて思った。 

んで、今は結構人に飢えてるような気がする。新しい人との出会い、的な。

社会性が今喪失している。大学時代は幸運なことに、面白い人に囲まれていた。

結局足りてない物を欲しがる物なのですね。

 

これを記憶の禁断症状と呼びましょう。

 

ないものねだりとか、隣の芝は青いとかに変わる新たな言葉を生み出しました。

この記憶の禁断症状が、人を不幸にするのではないか。

 

んじゃ、うらやましいな、って感情は一体?これはまた別の日に。

 

 

いやはや、だいぶ時間が経ってしまいました。自分の体感時間は一週間ぐらいなんですけど、カレンダを見ると半年近くたってるのね。この半年で自分は何ができるようになったのかしら。

 

現在無職になり、人生について考えてます。町内で引っ越しました。大阪は家賃が安い。

最近、隣のアパートにネズミがいることが分かり、奴らがこちらに領土を広げないか戦々恐々としている毎日です。

 

 

文責おがさわら(30、大阪、無職)