俺はなんばんぼし

釣具屋と不動産屋の

第οс回「2021年3月17日 風が吹いたら猫ヤバい」

桶が吹くと風屋が儲かる、じゃない、風が吹くと桶屋が儲かる、という言葉があるが、なぜ風が吹くと桶屋が儲かるようになってしまうのか。その仕組みを昔人に聞いたのだが年を重ねるにつれて脳細胞が死滅しており、今ははっきり覚えていない。まあそれでもここはひとつ頑張って思い出してみよう。まず風が吹きますね。風が吹くとどうなるのか。ギャグ漫画であればスカートがまくれるのだろうが、桶屋がそのへんにあるような時代には日本にスカートはないはずだ。しかし、着物の裾がひらめいて、女子の白い大腿部やその奥地が垣間見られたことはあるかもしれない。その時代、女性用の下着はあったのだろうか。男はフンドシがあっただろうが。自分はその辺の衣服の歴史に明るくない。が、それはどうでもよい、ええと風が吹くと何が起こるか、それが今は大事だ。なんてもったいつけていないで申し上げますと、砂埃が舞うのですね。現代の混凝土密林にこもっているとあまり見かけない光景だが、強い風が吹くと砂埃は確かに舞うね。風に舞い上げられた砂埃が体に当たると非常に痛い。これを自分は鳥取砂丘で思い知った。文字通り痛感、である。
鳥取砂丘はまず、堤防を越えなきゃならんのだが、これを越えるとちょこちょこと灌木っぽい樹木が茂っていて、その木々を抜けるとようやく砂丘らしい風景を見ることができる、緩やかな砂の下り坂がずっと向こうまで続いて、底から急な傾斜のかかった上り坂がそびえる、そんでこの上り坂を登り切った時、砂の痛みを痛感する(痛みを痛感するって日本語は正しいのだろうか)。上り坂の向こう側はこれまた急な下り坂になっていて、その斜面をなめるように潮風がせり上がり、砂粒を舞い上げるのだ。この砂粒が肌に当たると非常に痛い。いなごの大群に呑まれた時はこんな感じなのだろうな、と思った記憶がある。しかも砂は砂なので極めて細かい。衣服のわずかな隙間から容赦なく入り込み、体中が砂に浸食される。阿部公房の砂の女という小説を思い出す。あの小説のモデルとなった場所は鳥取砂丘ではないが。

烈しく脱線した。ええとなんだ、風が吹くと砂埃が舞うのである。じゃあ、じゃあ砂埃が舞うとどうなるのか。目に砂粒が入り込み、失明する。こんな流れだったような気がするが、砂粒が目に入って失明した、という人を聞いたことがない。カブトムシが入った、ヘドロが入った、それで失明した。そのくらいであれば失明すると思う。しかし、砂粒が目に入ったくらいで人は失明するものだろうか。まあこのままだと話がまた脱線するので、砂が目に入って失明するとしよう。失明するとどうなるのか。
これについては時代性が現れているナーと感じる。琵琶奏者になる、ということだったかと思う。目が見えなくなった人が音楽の分野で頭角を顕す、ということは現代でも耳にすることだ。ふむ。それで失明して、琵琶奏者になるとどうなるのだろう。
確か、猫がいなくなるのだったと思う。その時代、琵琶の面に張るものといえば猫の皮であったそうな。そんで琵琶奏者が増えて、琵琶を数人でシェアするわけにもいかんから、琵琶がたくさん必要になる。そんで琵琶をたくさん作るには、猫の皮もそれだけ必要になる。そういうわけで猫も皮を取られたらやっていけんというので、あたり一帯から猫がいなくなってしまう、とこんな感じだ。そいで猫がいなくなるとどうなってしまうのか。
野に生きる生き物にとって、なにかしら天敵というものはいるものである。まあ野に生きていない現生人類にも天敵といえるような苦手な人やなんかはあるが、とにかく猫を天敵とする生き物としては、風が吹いたことから始まったこの一連の流れは僥倖というべきだろう。その生き物はずばり鼠である。猫が人の生活圏で飼育されるようになった起源はエジプトにある、と昔だれかに教えてもらったが、その当時の主な目的としては現代のような愛玩目的ではなく鼠を取ってもらうことを目的として猫を手元に置き始めたのだそうだ。エジプトの鼠にとっては苦難の日々だっただろうが、時と場所は移り変わって臥薪嘗胆っていうか、風が吹いたり琵琶の生産数が上がったりして鼠の時代がやってきた。かつてエジプトで猫に嬲られ殺され虐げられた日々のDNAは、ニポンの鼠にもしかり伝わっており、もはや敵なしとなった世界でニポンの鼠は放埓の限りを尽くしたのだろう。食材を失敬する、屋根裏で家庭を築く、物陰からいきなり飛び出して婆を驚かす、などの振る舞いに至った。鼠たちは鼠算式に増え、人間の数よりも鼠の数の方が多くなるまでにそれほど時間はかからなかっただろう。世界はほどなく鼠に支配された。こうなると、どの家庭にも鼠が住み着くに違いない。鼠をはじめとした齧歯類ちゅう動物は、生きている間は歯が伸び続けるものだと決まっているらしく、なにか硬いものを噛んで削らないと自分の咽喉を自分の歯が突き破って死ぬる運命にある、と自分は子供の時分に大人から教えられた。鼠たちは自分と同じような鼠が増えたことで、齧るものを確保するために争うようになったと思われる。削ったり齧ったりするにはやはり角の立ったものを選びたい、というのが鼠の人情であろうが、鼠たちは数が増えたことで資源の枯渇という壁にぶち当たった。やがて固めで齧る実感がわくものであればなんでも齧るようになったのだろう、ついに桶が齧られる時がやってきた。それまで桶はあまり齧りの対象に選ばれることが少なかった、というのも、人がやたら液体を掬うのに使っていて湿っているし、アールがついている部分が多くて齧りにくく、齧りの対象としては敬遠されがちなもので、イケてる鼠はまずこれを齧ることはなかったのだが、もはやそう贅沢を言っていられる時代でもなくなった。鼠の一生は短い、ゆえに時代の移り変わりも早い。おそらく、猫がいなくなってから5営業日とあけずに、八百八町の桶という桶が齧りつくされたものと推察される。困ったものである。

鼠たちに桶を破壊されて困った人間ちゃんたちはどうしたのか。きっと時代的に寄合、でもしたんだろうね、このままじゃやべえって膝突き合わせて会議した。会議の結果、形あるものはいつかすべて崩壊する、それなら新しいものを作ればよい、またそれら新しいものも果たして崩れ去るだろう、しかしわしらはまた作る、この繰り返しなんだよ、俺ら人間は。破壊と再構築と破壊と再構築。これがわしらのモットーじゃ、あんたに恨みがあるではないが、さよならだけが人生じゃ、ねずみさん、死んでもらいやす、と言って、今でいうクラウドファンディングのような経済支援でもって桶屋を支持し、桶の生産数をあげたのである。桶の枯渇していた町民はこぞってこれを買い求め、桶屋は莫大な富を築き、出資者へ金箔の装飾と鳳凰の彫刻がされた別注の桶を優待品として配ったのであった。

 

以上が「風が吹けば桶屋が儲かる」という言い伝えの流れだと記憶しているが、結局のところは定かでない。同じような言葉で異国のものに、バタフライエフェクト、というのがある。ちょうちょが羽ばたく時に起こす微風で、地球の裏側で雨が降る、とかそういうものだったと思うが、その由来はマジで知らない。あと、この前群馬の個人書店で各国のことわざ比較、みたいな本でこの言葉が取り上げられていた。わざわざ群馬まで行ったのだから、買えばよかったナと今では思っている。

 

文責:不動産屋