俺はなんばんぼし

釣具屋と不動産屋の

第15回「お土産」

雨が降っていて、どこからというと、天だ。
天。いわゆるところの空に向かってずんずん、ずんずんと進んでいくと大気圏やら成層圏やら群青のゾーンを通ってやがて、黒い宇宙空間に出るが、もっとどんどん光のようにまっすぐ進んでいくと、そういうものがあるかどうか過度に無知な自分は知らないが、宇宙の隅、自分が存在するはずの宇宙の境目にいつかたどり着くわけで、そこが、ヒトとシマウマの、花崗岩とエアコンの、ダイヤモンドと愛の、プレーリードッグと菜の花の、「あなた…」と悔恨の、体温と硫酸の、梅の木と思い出の、「やっぱり」と「さすがに」の、恐怖と馬鹿の、座布団と岐阜県の、モーリー・ポピッチと日本刀の、フグの毒と鯖の、地団駄と破落戸の、事件と平和の、山田とチャーリイの、不倫と卍の、今日と明後日の、がらくたともののけの、結晶とうだるような何かの、原子力と純血の、「小さい」と「プティ」の、猿回しと自販機の、自販機の温もりと雨の日の肌ざわりの、「またね」と「いつか」の、愚者と類語の、地図と測量者の語られない忍耐の、国家と家庭の、東京とスカンジナビアの、祖母と彼女の料理の、呆然と昼下がりの、砂たちとそこに吹く風の、革命家の死と無名の誕生の、白いシーツとどぶ川の、あの日と草原の、ずる休みと窓の木枠の、長火鉢とモミガラの、怒りと葡萄の、自我と「さよなら」の跡の響きの、磨り硝子と信頼の、これまでとこれからの、俎と蝶々の、視神経と産声の、あらゆる勝手な善とあらゆる一途な悪の、土とその上にいるあいつらの、味覚と嫉妬の、草いきれと木枯らしの、0あるいは1の、「あなた」と「わたし」の。
それらのすべて・全て・凡て・総て・スベテがその境目から始まったのであり、我々のマジな母親はこの境目だ。誰しもの世界がここから始まる。

ということを、セックスに対して同じように思う。
女性器は宇宙の境目と同じ、生まれてくるそのこどもにとってのあらゆる意味での絶対的な母親であり、はじまりであり、意味を求めても解が与えられることがけしてない。空は天で、彼女たちはその天だ。男性器はその天に向かってあくまで進むロケットだ。天に存在する存在、それが神だ。世間の説明できないこと、答えが分からないことはすべて、神としか自分は語彙を持っていないが、絶対者、ユニークな存在がはじめたものであって、とすると、母親は世界を造りだす神であり、このことは神道のはじまりも女性であったし、男神(おがみ)ということばが対峙する女神ということばほど流通していないことから明らかなように、女性こそがもっとも本質的な存在だ。男なんて、ライオンが分かりやすい例で、あいつらときたら狩りも子育てもしないで、やることだけやって、あとは死ぬまで寝てる、まあ種の配達員ではあるけれど、みたいなオマケにしかすぎないのだね。


ということを会社の人に話したとしたら、次の日から自分のデスクが廊下にある、みたいなことになりそうなので、言えない。クー。

さて、「お土産」だ。
どうでもいいだろうが、まず、たまにお土産のことを「おみや」と云う人がいるけれども、ふざけるなと言いたい。お土産は「おみやげ」だからだ。もし、お土産が「おみやげんたるあなたにおくる」とか「オミヤゲーショナリズミゲーショニタント」などという名称だったら、略すのはわかる。しかし現実は「おみやげ」であり、げを省略したからといって、なんなんですか?という怒りが抑えられぬ。と同時にそのくらい抑えればいいのに、と思う斜め60度右前方に浮かぶ自分がいる。
未熟だね。言葉というものは変わっていくものなのに。弥生時代の言葉を江戸時代の町人が理解しないのと同じに、今の俺らは江戸の言葉を解せない。だからいつの時代も老人は時代が進む上での害悪であり、若者はこれからを作る。いつか自身が老人となることを恐れずに。蓋し未熟だ。

ところで、お土産とはそも、なんなのだろう。と改めて思う。
不思議だよ。なぜ世界中いたるところでお土産・スーベニアが用意されているのか。
それはまあ、銭が儲かるからなんだけれども、もっと昔の、お土産の黎明期にあった期待とは、つまるところ……なんなんだろうか。
俺はそれは分からない。
とはいえ、なんでもそうだが黎明期というのは純粋なもので、お土産の黎明期ではない今、世間にはまがい物のお土産が散乱している。嘆かわしいことだ、という28歳ジャパニーズの意見。


なにがまがい物なのか。
はっきり言って、菓子類はほぼまがい物だ。
なんたらまんじゅう、かんたらショコラ、それらは全部偽物だ。なぜ津々浦々に「ご当地」のまんじゅう、が有り得るのか。そんなのおかしいじゃないですか、確かにまんじゅうに適した土地や産地はあるだろうよ。
でも、どの観光地でも、どの旅館でも、売ってるものは包装紙と名前だけが異なるまんじゅうであって、なんたらショコラであって、こいつらは「旅行に来たのならお土産を買わないといけない、なぜかというと遠方に出かけてお土産のひとつも買ってこないことは非常識であり、その非常識に自分の精神が耐えられぬ」という個々人の強迫観念によって存在を許されているからだ。寄りかかっているからだ。
とにかく買って帰ることに、すべての意味がある。それは駅だとか空港だとかにお土産屋が並んでいることを見れば明らかで、それらは別にその土地で作られる・売られるユニークな理由がないにも拘わらず、「ここに置いときゃ売れるじゃろ」という商人の思惑が見事あっぱれ的中している。
くう。
なぜまんじゅうが、ショコラが、ショコラを含む洋菓子の諸々が、原産地でもない、有名な職人もいない地で作られ売られなければならないのか。ぐぬぬ


と文句を垂れ流したが、そんなことはお土産をもらう人にとってはまああまり気になることではなく、お土産をもらった人はおおかた嬉しいと思うと思う。
まんじゅうやらなんたらでは新鮮味はなく、そんなものが届けられた日にはその人の強迫観念を見る思いがするが、やはりその土地その土地の、ローカルなお土産は嬉しい。
なぜ嬉しいか。そこになにかしらの発見があるからだ。
例えば最近、大阪の知人に土手焼きをもらった。土手焼きは関東に生まれ育った自分にとって未知の食べ物だった。そしてそれは非常に美味だった。
その人がくれない限り、あるいは自分が関西に住んだりしない限り、土手焼きを知らずに死んでいただろう、自分は。
何だったら、万が一贈られたそれが不味いものだったとしても、それはめちゃ意味があることだ。
美味にしろ不味にしろ、そこに必ずあるのは発見であり、発見はそれすなわち、数少ない生きる喜びだ。
だから、ローカルな、土地のユニークなお土産は非常に好きである。

結局自分のいいたいことは、お土産のイデアは、未知との遭遇、この一点要素に賛美されるものであって、安易な、普遍的なまんじゅう然り洋菓子然りは、ただその人のオナニーに過ぎないのであって、ナーナーであって、自己愛のもっとも分かりやすい例であるから、注意が肝要である。

耳の穴がかゆい。雨はやんだ。

次回はオガサワラによる「春」についてです。

文責:江戸川不動産