俺はなんばんぼし

釣具屋と不動産屋の

第14回「ユーモア論 第一章笑いとは」

ユーモア論 第一章 ユーモアの定義

 

ユーモアを語るうえで避けては通れないのが、ユーモアとは一体何か、という事である。つまりユーモアとはなにか、という定義をしない限りはお話が進まないのである。もちろん、「ユーモア」でグーグル検索をすると、wikipediaにページは作成されているし、過去の賢人たちがユーモアについて一般化している。そういうのを参考にして書いてもいいのであるが、それだとただの受け売りになってしまう可能性が非常に高いので、ここでは私の独断と偏見による定義づけを行っていこうと思う。

修士論文を執筆中に、教授に言われた言葉を思い出す。

「過去の論文をよく読むように。参考文献はあればあるほどいいのだよ。参考文献のない論文なんてものは、真夜中の自室で繰り広げられる手淫と何ら変わりません」

ああ、先生、先生の言葉を無視する私をどうかお許しください。

 

笑い。人は何故笑うのでしょう。本当に不思議です。人間に感情があると知覚できるのは、実際に笑う、泣くといった生理現象的感情表現があるからだと思う。笑いという現象は一体何なのか、といった生物学的な考察はここでは避けさせてもらう。何故なら、そんなことは私の手に余るからに決まっているからである。なので、ここでは、笑いが起きる状況を分析していく方法をとろうと思う。また、人間に限定することも先に宣言させて頂きましょう。もしかしたら動物も笑っているかもしれません。でも私は動物ではないから、どのような場合笑っているのか知る由もありません。脳に電線をくっつけて、あ、このシグナルは笑っているときに出る人間の脳波と非常に酷似していますぞ!しかるにこの動物は笑っているに違いない!ひひっ!といった脳科学的な事は茂木健一郎氏にでもやってもらうのがよろしい。あくまで実際にユーモアを実践するための方法論の理解を主目的に置くからである。

 

さて、笑いについてもう少し限定する必要がある。人は様々な状況、感情において、笑いという表現を行う。照れ隠しで笑う、悲しすぎて笑う、怒りのあまり笑う、上司の面白くない話でも立場上仕方なく笑う、といった具合だ。ここではかような自発的・防衛機制的な笑いは除外させてもらう。従ってここでいう笑いというものは、つい笑ってしまうという受動的不可避な現象に限定する。

 

下地は整った。ここからは何故人はつい笑ってしまうのか、という私的な考察を行い、次に笑いが起きる状況の種類について述べ、そして最後にいよいよユーモアとは何か、という定義を行う事にする。さらに実際的にどの様にユーモアを披露するかといった心構えや方法論についても述べていく。本稿では、笑いの種類までになるだろう。事項で、ユーモアとは、その方法とは、と順をおって記していく。

もちろんこの文章は多分に私的な考えを含んでいる。むしろそれしかない。なるべくすべての一般的に起こりうる笑いを包括したいと考えているが、抜け漏れやそもそもの異論も多々あるだろう。また、なるべく体系的に書きたいが、なにぶん私も書きながら考えているので、非常に読みにくいかつ分かりづらい可能性もある。その点もご容赦頂きたい。あるいはご指摘を頂けると非常に幸いである。活発な議論を繰り広げ、笑いというものに対する見聞を深めたい。そう、私はユーモアというものの高みを目指したいのである。

 

第一節.笑う要因

私は、笑い、が起きる要因は下記の3点が単一的あるいは複合的に生じ、それを認識した結果、笑いが起きると考えている。ここで肝要なのは、それらを認識できるか否かにかかっていると思う。この節では、認識、という言葉を多用する。非常に便利かつ私の語彙力がないためである。ひとまずはその要因を記述していく。

 

  • ギャップの発見 ~標準状態からのズレ~

個人的な考えでは、このギャップがすべての笑いの基本であると考えている。一般的に広く知られていると思うし、大いに賛成という立場を取らせてもらう。見た目のギャップ、言葉のギャップ、状況のギャップ。このズレによって人は笑うのだ。なぜ笑うのか。ギャップを発見・認識をするからだ。なぜギャップを発見・認識すると笑うのか。人は本能的にエウレカしたいからであろう。では、何からズレるのか。それは標準状態からだ。では標準状態とはいったい何か。これははっきり言って様々存在する。

 

個人の思考はそれぞれの個人によって独自にパターンが形成されている。どういったことで怒りや悲しみ、喜びや楽しみといった感情が揺れ動くか、あるいは問題解決や目標達成に対しどのような思考プロセスをたどるか、人とコミュニケーションをとる際にどの様な方法をとることを好んでいるか、などである。これはその人本来の性質や、どの様な人生をたどって来たかによって形成されている。そして、世界と接点を持つ際に人は自分を通して世界を観測する。ここでいう世界とは、日常生活における風景や人間関係あるいは常識と言われる一般的な約束事などのことであり、身の回りで起きている事である。観測者は自分という主観という事である。自身の経験に基づいて形成された思考パターンに従って世界を観測するのである。さらに、そしてここで肝要なのが、人は、物事の事象に対し次に起きる事象の予想を常に行っている。次はどうなるのだろう、何を言い出すのだろう、何を言えばいいのだろうと、常に身構えているのである。

まとめると、各個人に蓄積された経験に基づく思考パターンによる世界に対する認識がその人にとっての標準状態である。また常に行っている予想は自身の思考の域を超えることが出来ない。

 

このように個人の思考パターンを通して世界を認識しているのであるが、これにズレが生じ、そのズレを発見・認識する事で人は笑うのである。まずはズレについて。例としては、会話におけるボケや意外性による笑いは、一般的に想定しうる受け答えという標準状態から意図的にしろ意図的でないにせよズレさせる。この標準状態からのズレが予想しうるパターンから外れていると面白さを感じ、笑いに転嫁する。天然と言われる人達は、意図せずズラせるので、よく天才などと呼ばれる所以であろう。ちなみに同一のズレによる笑いは何回かしか使えない。何回も見せると飽きられるのだ。つまりこのズレに見慣れる。標準化されてしまう。ジャネの法則(第 回参照)のようにそのズレが認識されると見慣れた標準状態の一部に取り込まれる。従って様々なズラし方を学ぶ必要がある。また、このズレの方向性と幅も当然重要になる。ズレがあまりにも頓珍漢だったり突拍子もなさすぎる荒唐無稽なものだと訳の分からない発言になってしまう。要は気がふれたと思われるのだ。笑いは安心の上になりたつ。余計な感情を芽生えさせてしまってはならないのだ。

 

次に認識について。漫才などでツッコミがいることは周知の事実だろう。このツッコミはボケ役がズラしたものを分かりやすく指摘する役割がある。指摘し、更に誇張させる、あるいはさらなるズラしを生むなど非常に重要な役割を担っている。このようの、せっかくズラしたとしてもそれが認識されなければ元も子もない。笑いにおいてズレの認識こそが重要極まりなく、この認識に対する考察がユーモア論における根幹であることを先に述べさせてもらおう。

 

笑いの難しいのが、各個人の認識が異なるため、おかしみを感じるズレの量あるいは幅に個人差があり、さらにそのズレを認識・発見できるかできないかといった差異も生じる。観測者はそれぞれの主観であるから、笑いは独立している。同じ事象を2人の人間が見た際に、認識に差があるため、1人は面白いと感じても、もう1人は面白いとならないことも往々にしてあるのだ。特にそのズレが大きすぎると恐怖や驚きといった別の感情になる場合がある。そのためこのズレ幅は大きければいいというものではなく、絶妙なズレが必要なのだ。笑いのツボが合う人はこのズレの感覚、またその認識能力が一致している人のことを言うのだろう。

逆説的に説明をすると分かりやすいかもしれない。スベる、というのはこのズレの意図した方向性や幅が仕掛け側と受け手側で異なった場合、あるいはそのズレの発見が受け手側になされない場合に起こる。ここで、この意図したズレを認識・発見してもらえない「ズレの不渡り」という現象もユーモア論において非常に肝要な出来事である。

 

 

 

  • 共感の発見~自身の考えや体験との共感~

共感とは、ある事象に対して、自身の考えや過去の体験、それら基づく感情と同一である、あるいは似たようなものを認識する事である。この共感が起きると笑いになるのだ。何故共感すると笑うのか。おそらく人は圧倒的に孤独だからだろう。先も述べたが、人が世界を観測するとき、そこには主観と世界しかない。自分が死ねば世界も終わるのだ。この孤独感から、他者と共感したときに、一瞬だけ世界と繋がれた安心をもたらす。この安心が笑いに転嫁するのではないかと思う。

  

共感の笑いはズレの笑いに応用することが出来る。共感している、という事は、その事象がすでにある個人の標準状態になっているという事である。例えば、過去の恥ずかしい体験等を共感させることで笑いが生じ、さらに共感しているため、観測者は次の予想に入る。この共感による予想をズラす。ズレの笑いと共感による笑いを複合させることが簡単にできる。

 

また、共感でもツッコミという認識への働きかけが笑いを後押しする役割を担っている。ズレとの複合になるが、ボケ役がズラしを行ったときに観測者はそのズラしを認識したとする。ズレに笑ったところで、更にそのズレにツッコミという指摘が入ると、自分のズレに対する認識は間違いではなかったと安心し、更に笑いを増進させる。あるいはその逆もしかりで、このズラしがうまく笑いにつながらなかった場合、観測者は笑わない。しかし、その事実にツッコミをいれる事で、面白くないと感じるのは自分だけではないと安心し笑ってしまうのだ。いわゆるすべり笑いなどがこれにあたる。

 

  • 予定調和~期待の実現~

これはズレの笑いの亜種であるが、分かりやすさのために分けることとした。ズレの笑いは、標準状態からズレ、その予想しえないズレを認識する事で笑う、と説明した。一方この予定調和とは、そこに標準からのズレがあることを予想・期待した状態で、ズレを認識し笑うという事になる。この期待をしている状態を認識することが非常に重要となる。お笑いでいうところのいわゆるマエフリがこれにあたる。このマエフリは突然行うと無茶ブリと言われ嫌われてしまう。マエフリはその集団において一般化されたもの、つまりはある程度の答えが用意されたもので行われるのが慣例となっている。例えば過去のボケの流れをもう一度繰り返すいわゆる天丼がこれにあたる。先のズレを認識しているか、という確認の作業と言え、個々人の認識能力を試す少し意地悪な笑いともいえよう。

 

またここでもズレの笑いに応用が可能となる。予定調和ではあらかじめある程度答えが用意されている、とした。つまりすでに予定調和自体が標準化されたものと言える。

答えは予想されているのだ。ここまで読んだ読者はもうお分かり。予期せぬことより期待を超える方が、笑いが大きくなる確率が高い。期待通りでも十分、期待を超えることが出来ればそれはスタンディングオベーションである。

 

 

 

 

以上3つの状況が単一あるいは複合する事で笑いが起きると考えている。これらはあくまでもごく単純なメカニズムである。説明した風になるこじつけととらえられても構わない。笑いは言葉で説明できない要素は多い。その場の雰囲気や独特の間がそれにあたる。その場空気は、その状況により時々刻々変化し、とらえどころがない。独特の間なんてものはその人固有のリズムであり説明が難しい。これらは、方法論の章で、なるべく論じたいと思う。また人本来の残虐性といった性質も笑いの要因になっている気がするが、あまり愉快な笑いにはならないのでここでは説明を省く。

 

さて、下記に一般的に知られている笑いの種類一覧である。思いつく限りであるため、当然抜けもあるだろうが参考に見ていただきたい。思いつくままなので、リストの順番に意味はない。

 

 

・変顔、コミカルな動き、舌足らず・大仰な話し方など

・・・視覚的、聴覚的に標準を持っている。その標準から外れているため、おかしいと思い笑う。ただしもともと病気の人や怪我でまともに歩けない人を人は笑わない。異常状態であることを理解しているからである。

 

・アクシデント

・・・ドブに足がハマる、鳥のフンが頭に落ちるなど日常という決まった流れという標準から外れたため、おかしいと思い笑う。あるいは相手の不幸を見て笑う。残虐性を垣間見た気がする。

 

ダチョウ倶楽部、お約束など

・・・当然予定調和の笑い。いわゆるお約束。あの来るぞ来るぞ感にぞくぞくしたい。

 

・比喩、語彙

・・・日常会話において、思わぬ比喩や語彙による表現で笑ってしまう事は多いだろう。これは自分の標準からのズレ、あるいはその比喩や語彙自体は知っているという共感の笑いが複合していると言える。この比喩、語彙による笑いは非常に愉快かつさわやかであるため是非体得していただきたい。

 

・下ネタなど

・・・一般的に下ネタは人前で言ってはならない恥ずかしいものという共通の認識があり、その認識を破るため、つまりはずらすために笑いが生じる。あるいは、ある人から思いがけず下品なワードが出ると、そのある人の標準と擦れるためでもある。というかそもそも下ネタは面白い。

 

・滑り笑い

・・・共感の笑いにも記述したが、滑ってしまった人の気持ちがわかる、この空気感に見覚えがある、といった共感のための笑い。あいつやったな、という残虐性も含まれる。

 

・緊張と緩和

・・・緊張したシーンが突如緩むと、緊張しているシーン、という標準状態からズレが生じわらいになる。最近の漫画でいえば、進撃の巨人ゴールデンカムイがこの手法を非常に上手に使用している。

 

・無茶ぶりの美学

・・・単なる無茶ブリは地獄であるが、しっかりとマエフリを行う事で笑いとなる。勝手に池に飛び込んでも気が違ったと思われるだけであるが、絶対に飛び込むなよ、といったマエフリがあると笑いになる。これもダチョウ倶楽部の、絶対に押すなよ、が代表的。

 

・ヤジ

・・・一般的に誰かがスピーチなどをしている際に用いられる。スピーチとは粛々と聞くものという標準状態から外れるため、笑いが生じる。また、その野次の内容に共感が含まれるとなおよい。

 

・悪口、自虐など

・・・共感、あるいは人の残虐性によるもの。特に悪口は表現に気を付けなければただの嫌な奴になる。しかし、語彙や比喩など表現を工夫し、ズレの笑いと混ぜると一躍風刺家という一目置かれる存在になれる。

 

 

 

次回はいよいよユーモアの定義を行い、我々が目指すべき姿について論ずることにする。

 

今回はこれまで。次回は東京の不動産屋。

テーマは「お土産」

 

文責おがわさら(大阪、28歳)