俺はなんばんぼし

釣具屋と不動産屋の

第17回「祈り」

にーぽーのみらいはうぉううぉううぉううぉう、せーかーぃがうらやむいぇいいぇいいぇいぇい、などと白い歯を光らせて歌い踊る小娘を眺めて自らもまた日本の未来を期待する、嘱望する時代があったが、うぉううぉう言っている場合では、正味の話、ないわけで、テリビをつければ、少子高齢化、天災による被害、地域過疎化、年金問題、政治家の汚職、非行の低年齢化、若者の無気力、大人の幼稚化、外来種問題、生温い共感、マウンティングの往来、不倫、脱税、いぢめ、ミサイルの発射などが続々と目耳に入ってきて、つまり狂った人々が構成する狂っていることが正常とされる世界であり、その意味で限りなく正常なのだが、こんな世の中でうぉううぉう言って将来を明るいものと信じ込むのはやはり狂っているのだと思わずにいられず、とにかく明日、っていうか次の瞬間になにがどうなっているのか、それすらも知ることができず、日本の未来もお前の未来も、何もかもが霧の中、謎である。

祈り、という行為も考えてみれば謎で、例えば食べるという行為、眠るという行為については日頃から行っていることで、造作ない。食べることと眠ることの違いが分かっているからだ。
が、祈りとなると、自分の内に祈り経験がなく、山猫に育てられた少女が電子レンジを見て何にどう使うのか分からないのと同じで、祈りについて持て余してしまっている、それが現状だ。

なんなのだ、祈りとは。と思って類語辞典を参照すると、「神や仏に対して、心の中で何かをかなえてくださいと願う」とあった。
どうりで。
どうりで持て余すわけだ、なんとなく「ソウナノカナー」と思ってはいたが、祈りとは神仏に向かっての行いであり、これといった神も仏も日常的に意識せずにのほほんと生きている自分、ひいては日本人の多くがそうだろうと思うが、祈りがなんなのかなんて分かるわけがないのだった。

とりあえず、分からない・分かりにくい、ということが分かった。
シスターの祈りも、長老の祈祷も、自分にはその本気度が計り知れぬ。そして持ちうるバックグラウンドが違う以上、その本気度を計り知ってはならぬ。分かった気になってはいけぬ。
何を言っているのか、自分でもよくわからなくてしまらないので、祈りに関する本を思い出したからそれを紹介する。


ホサナ 町田康
ホサナ、とはヘブライ語で「救いたまえ」という意味だそうな。犬とバーベキューとひょっとこの話。町田康はバーベキューが好きらしく、初期の「河原のアパラ」でもバーベキュウをする狂ったおっさんが出てくるし、自らも知り合いとバーベキュウをする、みたいなことを書いていたような気がする。

沈黙 遠藤周作
隠れキリシタンの話。名前は忘れてしまったが、宣教師が信仰というものを行為で保つのか、精神で保つのか、の場面が印象にある。
純粋な思い、願い、祈りは矛盾した孤独の上にこそ立つのだろう。


文責:江戸川区不動産屋(28)