俺はなんばんぼし

釣具屋と不動産屋の

第16回「春」

四季の一つ。春。日本人の好きな四季ランキングを取れば、おそらく上位4位には入ってくる人気の季節だ。春。それは季節の変わり目の境界をつかさどる季節の四天王が一である。

 

ただ、この四季というのはだいたいが大雑把なくくりである。どこからが春で、どこからが夏なのか。暦の上ではもう少し詳しく分類している。二十四節気といい、四季をさらにその中で6分割したものである。立春やら春分といった言葉は聞いたことがあるだろう。これらは二十四分割された分割点にあたる日の名称なのである。とはいえ、いくら二十四分割して、暦の上ではもう春なんですよ、といったところで、寒かったらまだ冬だなあと思うし、暑かったらもう春が終わった、と思う事だろう。暦の上での決まり事も実感が伴わなければ人間納得しないものである。

ところでこの暦って誰が決めたのであろうか。現在世界的に採用されている暦はグレゴリオ暦というらしいく、当時ローマ教皇であったグレゴリウス13世がそれまで使われていたユリウス暦を改良しなさいと命令して、1582年10月15日から行用されたらしい。じゃあ、ユリウス暦ってなんだべや、どう改良したんだねって話になるが、ユリウス暦は紀元前45年にユリウス・カエサルが制定したもので、一年を365.25日としたものある。しかし、実際の地球の公転周期は365.24219日で、一日当たり0.00781日、時間にすると0.8744時間、分にすると11.2分公転周期と暦がずれていくから、それを解消しましょうっていうのがグレゴリオ暦らしい。詳しくはwikipediaに譲るが、だいたいがキリスト教圏の人間によってもたらされたものである。あいつらは進化論は否定してたくせに観測できるものに関してはこと几帳面であるらしい。ちなみに宗教に関する素養はないので、キリスト教に関してもwikipediaに譲るが、文明というものは、変化を認識し、それを解明することによって生じるものなのでしょう。赤道周りが発展途上国なのも至極当然のことかもしれない。常に暖かく、食料も豊富にあれば、そりゃ寝ますよ。遊びます。人生のんびり生きちゃうね。

 

円運動っていうものはすべての基本なのかもしれない。ぐるぐると周期性をもって運動する。我々は一日という周期性をもって生きている。あるいはもっと広く見ても周期性がある。学校に行く、会社に行く、結婚する、子供を産む。ぐるぐるぐるぐる世代を超えて同じことを繰り返している。ぐるぐるぐるぐる。この周期から逃れたい欲求は誰しも持っているのである。死への渇望もその一つだ。私は学生時代よくフェリーを利用して日本を移動していたが、甲板から見下ろす海に何度手招きされたことか。別に鬱でもなんでもないのだが、ふとその無意識の渇きに気が付く瞬間がある。人生というものは壮大な円運動のちょっとした切り取りなのかもしれない。一人の人間が生まれ、死ぬ間に一周しているわけではない。円周上のある一部の切り取りなのだろう。では、始まりはどこで、終わりはどこ?そんなものはない。始まりも終わりもないのだ。いつかは始まりに戻りそれはつまり終わりでまた始まりなのだ。言葉があるだけで実体はない。そんなもんなのだ。今度は仏教じみてきた。

 

 

ちょっと話を大きくしすぎてしまった。壮大な話になるとぼろが出るのでこの辺にしておいて、周期性についてちょっと小話をすることとする。女性なんかは生理という分かりやすい周期があるが、実は私にもそのようなものがいくつかある。一つは脱皮である。

昆虫やザリガニとかカニなどの甲殻類、あるいは爬虫類にも見られる特徴的な現象であるが、なんとそれが私にも起こるのだ。むろんラバースーツのように全身の皮が脱げるのではない。足の裏、という極めて局所的な場所においてのみ、ちょうど季節の変わり目に脱皮する。この周期性に気が付いたのは20歳の、それは春の終わり夏に入りかけていた頃であったか。その日私は足の裏にむずむずとした違和感を覚えた。なんか靴下の下に入っているのかしらん、とのんきに足の裏を眺めると仰天した。右足裏の母指球を中心に足の指の付け根の下あたりから土踏まずにかけての表皮が、まるで水たまりのように白くなっていた。足の裏なんて普段見ないので、油断しているうちにそのような状況になっていたのであろう。その白い部分の境界は、まだ生き生きとした私の皮膚と結合しているので完全には分離していないのであるが、少しつまんでみると、テントを張るように白い部分の皮膚が足の裏の肉から浮くのである。これはいよいよどうしたものかと思ったが、私はその皮膚を引っ張りはがすという衝動を抑えることはできなかった。少し爪を立てて再び白い皮を引っ張るとテントのように張った皮膚に亀裂が入り、白い皮と足の裏の間に空気が入ってくるのを感じた。そしてそのままぺりぺりと境界の生きた皮膚から白い皮をすべて引き剥がした。白い死んだ皮膚の下には新しい表皮が形成されていたようで、痛みは全くなかった。これはもう一言で表すと、快感である。ほどなくして左足も同様の状況になっており、意気揚々と自身の足の裏の皮をめくったのだ。それから、世間の連中がやれお花見だ、紅葉狩りだと四季を楽しむ中、私としては足の裏の皮をむく、という突如旋風のごとく登場した奇奇怪怪な季節の変わり目の行事を密かに楽しんでいたのである。

それからしばらくしてから。学友と夜にどんちゃん騒ぎをし、羽目を外した私は裸足で屋上を歩くという愚行に出てしまった。暗がりで、コンクリート冷たくて気持ちいなんて間の抜けたことを思った刹那、私は古びた釘を強か踏み抜いた。目が飛び出るほど痛く、我が人生痛いランキングでは、小学生時代に朝礼台の上からツイスターツスターツイスターの真似をし左足を折る、に次いで2位にランクインするほどだった。家庭の医学を読むことが私の趣味であるのだが、破傷風という3文字がすぐに頭に浮かんだ。人類が克服したとはいえ、間違いというのは誰にでも起こる。ワクチンが間に合わなかった場合、いとしい右足をちょん切るほかない。半死半生で夜を過ごし、翌朝一番でひょっこらひょっこらと自転車をこいで近所の皮膚科に向かった。先生と対面し、実は釘を踏みまして、と右足を見せると、なぜか足をまじまじと見ていた。

「君、たぶん水虫だよ。一応検査する?」

え、水虫!?と内心ドキドキしながら皮膚の一部をはがされシャーレのようなもので持ってかれた。なんでも顕微鏡で覗けば一撃で分かるらしい。え、釘の傷は?なんて思ってたけど、抗生物質と塗り薬を出してくれるらしい。その後、待合室に戻り、検査の結果を待っていると、看護師の女性に呼ばれ、耳元でささやかれた。

「陽性でしたよ!」

なんでこの人は妊娠発覚みたいにうれしそうにしているんだと少し笑ってしまった。ささやきはちょっとした配慮であったらしい。ちなみに、薬局でも、薬の説明の所で、とても小さな声で水虫の薬の説明を受けた。あれはもう逆にやかましいと思った次第である。

 

さらにちなむと私は大学時代学寮に住んでいたのであるが、皮膚科の先生にその寮に住んでいる事を告げると、ああ、どおりで。あの寮の人は常連だよ、なんていらないプチ情報を携えてくれた。どうやら私の住んでいた寮は白癬菌の温床らしかった。

その白癬菌私のお尻をずたずたに犯された話はまた今度。

 

なんか春とは全然関係のない汚い話になってしまった。どうもあまのじゃくな性格がいかん。

 

次は東京の不動産屋。テーマは「祈り」にしよう。

 

それでは。

 

文責おがさわら(大阪、28歳)