俺はなんばんぼし

釣具屋と不動産屋の

第35回「香り」

雨が降っています。
この世界で幸福を感じる瞬間は、ピザの箱を開けた瞬間と、雨の音を聞きながら今日が休みである事に気付く瞬間である。

前者はいわずもがな、後者についてはこの瞬間の為に俺は生きている、確かに生きているんだ、と何かしら例えば海とかに叫びたい、そのくらいにその瞬間を愛している。

よく、ってまあ別によくでもないか、でもまあ休みの日に終日部屋にこもってぐうたらしている夫に向かって「休みの日だからって家でゴロゴロしてくださいますな」などと掃除機をかけながら妻が言う、みたいなシーンがあるね。ああ、俺はそれをドラえもんの漫画で見た、多分20年くらい前に。その残像が今も網膜と視覚野に焼き付いている。眼の記憶、っていうの? このシーンは勤め人の悲哀が凝縮されたものだなあ、とあの時俺が思ったかどうかは分からない。
が、休みの日に外にも出かけないでぐうたらするのは気が引けるものであり、怠惰な精神? ちゅうの? 堕落した生活習慣? ちゅうの? そういうネガティヴな観念が私の中には確かにあるのでございます。

そういうわけなので、休みの日に雨が降っている事はこれ、非常に嬉しいのでございます。なんでって、雨が降るとみなさん外出したがらないでしょう、だから雨が降っていれば外に出ないことに大義名分が立つ。なんと素晴らしいことでしょうか。
私は雨を愛好しております。雨を愛好していきてゆく所存でございます。
敬具


PS.
それから私は雨の匂いも好きなのね。雨上がりの時が強いかな、降っている時はなかなか感じられないけど、なんつうの、とにかく雨が降らないと漂ってこない匂いがある。埃っぽいというか、アスファルトっぽいというか、そういう土系の感じの。普段は乾いているものが雨に濡れることで醸し出てくる匂い、っていうのかね、伝わるか伝わらないか分からねえ、でもあの匂いが俺は好きさー、と何かしら例えば海とかに叫びたい。そのくらいに、その正体不明の匂いが好きなのでございまして候。


でもこの正体は知らない方がいいのかもしれない。おひさまの匂い、がその典型的な例である。
よく晴れた日。干した布団に顔を埋めると、なんやら香ばしい、まさに陽光の香りとしか形容のできない芳しさに我々は快楽を覚えるが、あれはダニが干からびた時に生じる匂いが主成分であり、おひさまの匂いはダニの匂いだったのだ、というのは有名な話で、正体不明だがなんとなく心安らぐ薫香という点で雨の匂いに通じるところがあり、この謎は私が絶命するまで解明されないでほしいな、と切にお願い申し上げる次第でございます。
敬具

PS.
この間、テレビジョンを観賞してましたところ、モグラが出てきましたの。モグラの生態についての番組でしたけれど、モグラって鼻がとても良いのよね。なんでさっきから婦人調の言葉になっているか分かりませんけど、こういうのは途中で改変するタイミングが難しいんですの。母をお母さんと呼んでいたのがいつからかなんとなく気恥ずかしくなったものの、いつどうやっておふくろと呼び始めればいいのか分からないのと同じように。
それで、モグラの嗅覚がすごいって話だけど、その性能の良さは犬にも劣らないって話なのね。わたし、驚いたわ。そしてモグラの可能性にひとり、歓喜したわ。だって、こないだ警察犬が逃げ出したってニュースやってたじゃない、犬って足がとても速いから逃げ出したらなかなか捕まらないわよね。それに何かの拍子に噛まれたりしたら、惨事が大じゃない? だから私思ったの、もし犬が警察のお供として不適格だとされるようなことが今後起きたとしても、代わりにモグラに手伝ってもらえばいいんじゃないの、って。警察モグラよ。漢字で書くと、警察土竜よ。警察犬より、警察土竜の方が威圧感あるじゃない? 犬よりも犯罪抑止になるんじゃないかしら、字面としては。犬のようにぴゃっ、と逃げ出す恐れもないし。空港みたいな室内の麻薬捜査・薬物検査では、逃げないってことでモグラに軍配が上がると思うわ。でも、屋外の捜索は多分だめね。油断すれば土に潜っていってしまうし、川とかも入れないだろうし。でも屋内なら、断然わたしはモグラ派よ。
敬具


PS.
視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚、と人には五感が備わっているとされるが、視覚の比重は極めて大きい。人は見ることで世界を感知すると言える。
が、主に視覚に頼る、というのは人の場合であって、人の世界であって、モグラや犬の場合は、まったく異なる世界を、モグラや犬なりに不自由なく感知しているに違いない。おそらく、人が目であらゆるものを識別するように、あらゆる匂い・香りの微妙な違い、彩り、雰囲気などを識別しているのだろう。そこには人の世の視覚で構成された、あらゆる世界観やムードと同じようなものが嗅覚によって存在しているのだと思う。春と秋の匂いの違いや、朝と夜の香りの違いが。
僕らが逆立ちしても嗅ぎ分けることのできない香りを、モグラや犬が感じられることは、割と羨ましい。

PS.
次回は「埼玉県」でお願いします。

文責 : 全日本モグラの鼻を愛でる会 亀戸支局 編集部