俺はなんばんぼし

釣具屋と不動産屋の

第23回「クリスマスに感じるのは切なさなのかやるせなさなのか」

遠方というのはなんの目的もなく行くと気楽なので面白いが、目的があると、全く面白くない。

この間、タイに仕事で行ってきた。詳細は秘密だが(社外秘、というらしい)、例えるなら「ガリガリ君エスキモー相手に一本100ドルで売ってこい。売れなければ当社は倒産しますので。よろしくお願いしますので。」といったもので、生真面目な私はまったく気楽でなく、面白いものではなかった。
しかも100ドルで売れなかった。13ドルくらいであった。どうしようもなかった。心身ともに疲れ果てた私は、帰国の日がヒジョーに嬉しかったことこの上ない。仕事は失敗に終わったため、自棄になっていた感がある。

そういうわけで顔面には負のアウラが漂いつつも、ハートの中では謝肉祭、みたいな複雑な生き物となった私は、ホテルのロビに立った。チェックアウトするためにね。ちゃっちゃとサインをし、白タクが来るまでタバコでも吸ってようかしら、と外に通じるドアーに向かったの。そしたら、ロビで受付に勤しんでいた娘っ子が「ハムスター、ハムスター」と発言しているじゃないですか。
おかしいじゃないですか。
いや、ハムスターが目の前にいるのなら、分かるよ。かわいいからつい、「ハムスターが眼前におるわあ、めんこいわあ、キュートやわあ、むっちゃ」という気持ちから「ハムスター」と口をついて出るのは分かる。しかし、そのハムスターはいない。振り返ってみると娘は自分に対して言っているらしい。ということはどおいうこと? 舐められているのか、自分は? この娘に? ハートの中では謝肉祭が突如として終了し、大地の精霊に捧げる炎の演舞、みたいなものが始まっていた。

ドンドコドンドコドンドコドンドコ。
自分は怒ったね。「はは、あなたはハムスターなのよ。ハムスターのようにちこちこ歩いて跳んで、フードでもかじっていれば幸せよ、そしてお似合いよ」みたいに言われている思われていると瞬時に勘づいたからである。
「だれがハムスターだあ、この娘っ子たれがあ。英語もタイ語も満足にできないからって舐めたらあかんどこらあ」と町田康風に伝えようとしたが英語もタイ語もアーとかウーしか言えないので伝えられない。ドキ&マギしてアーウー言うこと数秒、自分ははたと気が付いた。

娘は、ヘイ、ミスター。と言っていたのだった。発音が日本英語らしくないので、ヘイミスターが滑らかな発音となり、ハムスターと聞こえていた(そんなわけねえだろうと思う人は、一度ハムスターとネイティブっぽく発音してみてほしい)。タクシーを今から用意できるがいかがか、と聞きたかったらしいのだった。
自分はハートの中で怒りの舞を踊らせてしまったことを詫びようと思ったが、時、既に遅し。怒りの舞を表すタイ語も英語も分からず、なすすべが無いので、おこぼれを頂戴して生きる下官のような笑みを浮かべながら「コップンカップ」といってタクシーに乗った。
合掌!!


国内のホテルでは、こんなことは起き得ない。なんてったって、生まれた国育った国、ニッポン。怒りの舞という言葉もあかんどこらあという言葉も自在に操れる。ミスターとも呼ばれない。いいぜ、ニッポンのホテル。

国内の仕事をしている時も、まあ人並みに出張をしてホテルに泊まっていた。人並みの出張頻度ってなんだ。それは分からないが、月に2回くらいは出張をしていて、都度ホテルに宿泊していたのだ。
よく泊まるホテルには、妙な自己啓発本と聖書が置いてあった。ホテルの滞在は暇である。暇なときに人間が何をしでかすかといえば、オナニーだ。しかしそれも終わると、さらなる暇が待っている。そこでようやく、聖書を開くことになるのだった。毎回。


そんでもって、突然ですがお題だ。「クリスマスに感じるのは切なさなのかやるせなさなのか」。
クリスマスというのは聖書にあるエピソードが元になっている、と幼稚園の頃に観させられたクリスマス劇で教えてもらった。クリスマスを祝うのはイエスの誕生を祝うため、プレゼントを贈るのは聖人が聖母マリアに出産の祝いを届けたからなんだと。

しかるになんですか。この有様は?
キリスト教の聖なる行事にかこつけて随所で性交に及ぶ男女の数が、半端ではない。イエスのことなど知ったことではない、俺らがハッピーならハッピーじゃん的な勢い。日本以外の国のことは分からないが、「聖夜は性夜、これいかに」などと、たわけたことを宣うおやじも出る始末。
キリストだかイエスだか知らねーけど、誰かと一緒に過ごし、スペシャルな日にする。幸せを感じる。これが大事だ。これができなきゃさみしい負け組、悲しい負け組。
この流れに乗れない者は言いようのない切なさ、やるせなさを感じちゃうよね、という雰囲気が現代日本には蔓延しているが、自分はこれをまず断ち切りたいと思う。


まず、このイベントで頻発するとされる性交について考えよう。
性交というくらいだから、精液も出る。成人男性の射精一射につき精子がいくつ含まれているか、ご存知だろうか。約3億だ。次に、それじゃいったい何人の男が射精すんのよ、ちゅうことだが、これは総務省から出ている人口推移白書を見てみよう。総務省によると、2019年12月1日時点での20〜49歳の男性人口は約2300万人だ。草食系男子、などと揶揄される時代だから少なく見積もって3割の男が、クリスマスに性交に及ぶと仮定する。
また、独り者のクリスマスに起因する謎の切なさ・やるせなさが動揺・惑乱・焦燥・自暴自棄などをも同時に引き起こすことで、自慰行為に及ぶ人口もある程度増加すると見込まれる。これが2割。
つまり大雑把にいって約半分の成人男性、1100〜1200万人分の射精がクリスマスの前後で発生する。
1200万とすると、なんと360,000,000,000個もの精子が放出されることになるのだ。数字だけではよく分からないが、文字にしてさんぜんろっぴゃくおく個である。
だからなに、って思う人もいるだろうが話はまだ終わらない。精子なのだから、それが卵子と結合すれば受精卵となる。新たな命の誕生だ。あとは水をやって栄養をやって、実を結ぶよう世話をする段階がある。
しかし、かなしきかな、卵子と結合できるのは基本的に一位でゴールしたただひとつの精子であって、ニ位以下はすべて昇天の運命だ。しかも、コンドームなどをつけていたらひとつもゴールしない。
つまり、この時に芽生えた最大1200万の命の土台で、最低でも359,988,000,000個の命がなくなったも同然のことなのだ。


だから、世の男女らよ。
他の男女が楽しんでいるクリスマスに相手がいない、独りは切ない、などとひとりでよがっている場合ではない。自分はむやみな殺生をせずに済んだ、と胸を張るべきではないだろうか。
ぼくらはみな、この世にあるというだけで、既に大勢の他を殺しているのだ。幸か不幸か、生命の根本で勝ち組なのだ。
ならば、生きている、この世にある間だけでも、他を思いやることはできないだろうか。そんな社会にできないだろうか。
切なさもやるせなさも、感じている暇などぼくらにはない。一番切ないのは、というか切なさを感じることすらおそらくできていないのは、僕らが気ままに殺していった精子たちだ。
だからこそぼくらは主張しよう。「ぼくらは何も間違ってなどいない」と。

ただ、この主張を推し進めると反出生主義になってしまうんだが、どうしたものか。。。


ということを昨日の会社忘年会で話したところ、「ちょっと、何言ってるか分からないんで、もういいですか」と言われて、盲言の輩となり果てて、帰り道の夜風が冷たく感じられて、切なくて且つやるせなくて涙。みたいな。

だから、「クリスマスに感じるのは切なさなのかやるせなさなのか」というお題に対する答えは、「ある種の切なさでもやるせなさでもあり、且つまた冷たい夜風」としたい。


クリスマスイブは場違いな銀座へ行き、新橋でラーメンを食べて、終わりました。明日はケンタッキーでチキンを10個買って、全部ひとりで食べようと思います。

次回はおがさわら。
お題はフリーです。

文責:江戸川区