俺はなんばんぼし

釣具屋と不動産屋の

第24回 ユーモア論 第一章二節「ユーモアの定義」

時が経つのは非常に早く、気が付けば年が明けて早20日が経とうとしている。寝て、起きて、食べて、寝て、起きて、食べて、寝て、を今年も繰り返している。私の日常はいたって平和です。皆さん、あけましておめでとうございます。

この、あけましておめでとうございます、という年始にのみ行われる挨拶に私は非常に好感を持っている。年を取るという事は、老化が進んでいく、可能性の減少といったデメリットにばかり目が行きがちであるが、やはり健康に新年を迎えることが出来たという証である。それを皆で確認しあって、喜び合う。毎日だとうっとうしく、10年だと死んでいる人間も多かろう。1年という年月はちょうどいいのである。非常に平和で好ましい。

最近は年賀状という風習が世間様で消えてきている様だ。もちろん私も全く書いていない。しかし、年賀状というものはとてもいい文化なのではないか、という気がしてきている。面倒、社会的付き合い上仕方がなく送るために生じる義務感、日本郵政の企て、といったデメリットにばかり目が行く。中には年賀状をやめるという人も増えているらしい。両親の所にも、やめます状が何通か届いていたので、どうやら本当なのであろう。

同世代の友人にアンケートを取ると、大半の者は年賀状を送っていないという結果になっている。確かに私も中学、高校の頃は親に習って同級生にふんふんと年賀状をしたためた。年賀状の数を競い合ったような記憶もある。しかし、大学、社会人と移ろう中で、電子メイルが台頭をはじめた。電話というアレキサンダーグラハム・ベルが発明した強烈な連絡手段すらも電子メイルには勝てず、紙媒体などは塵ほども残らなかった。次第に年賀状を中高の友人には送らなくなった。さらに社会的立場の変遷期でもあるので、住所も変わりがちな事も相まって、自身の中で完全に年賀状という文化はついえたのである。特に私はマメな性格ではないため、このようになるのは必然と言えたかもしれない。学生、社会人とそれぞれでコミュニティに属してきた中で多くの人が私を通過していった。そのコミュニティは卒業とともに消え失せ、そこで出会った人たちと日常的に会う事はまずない。しかし、それぞれで気の合う人というのは必ずおり、時折会いたい人達がいるのである。そういった人たちは今年も健康に元気でいるのかしらん、と挨拶をかわしたいものなのである。電子メイルでポンと送ればいいが、会えるタイミングでもなければ、なんのメイルなのだろうかと相手はいぶかしむかもしれない。そこで登場するのが年賀状というわけだ。そういうものが年始にあるのはなんだか素敵な気がするのです。挨拶という側面が大きいため、普段あっている人に送りがちであるが、実はそうではない。むしろ、消え失せたコミュニティ時代の人に贈るものが年賀状と言える。断捨離系の人はそういう風には思わないかもしれないが、私はそう思うのである。今年は30歳になる年なので、久々に筆を取ろうと思う年始である。印刷物の進化が便利を運び、大量印刷された味気ないものが増えたため、この義務感などのデメリットが目立つようになったのではないかと思う。一枚一枚、その人物に対して時間と手間をかける。そうして、私は元気ですが、あなたは?と時間と空間を超えて挨拶を交わす。年賀状とは、私はあなたを気にかけています、という意思表示なのでしょう。そんなものが年始に届いたらなんだか素敵な気がするし、何してんだこいつは、とあわよくば初笑いを奪えるかもしれない。おそらく、私にそのようなものが来たらうれしい気持ちになる気がする。

 

と年始の挨拶が長くなったが、ここから本題に移ろうと思う。

 

第二節 ユーモアの定義

 

ここまで、なぜ笑いが生じるのか、という要因を個人の主観による認識の観点から説明した。詳しくは第14回「ユーモア論 第一章 笑いとは」を参照頂きたい。

 

本節では私独自にユーモアを定義し、その説明を行いたいと思う。あくまで一般的な定義とはやや異なるが、本質は同じであると考えている。

 

ユーモアの定義:

「ある発言機会において、特定の教養や人間関係を利用して(背景にして)生じる笑い」

 

笑いが生じる要因として、①ギャップの発見、②共感の発見、③予定調和の3つであることを説明した。ユーモアとは特定の教養や人間関係を用いて、主に①と②を発生させることなのである。この特定の教養や人間関係とはどういったことか。人種や国民性から始まり、地域性、所属コミュニティ、宗教、ジェンダー、スポーツ、文化、科学といったものである。または、そのような背景を持ったコミュニティ独自の共通と思われる体験や感情も同様である。人間は山籠もりをして一人で生きていない限り、上述のような背景を必ず持っている。またはかような属性、分類といったもの、知識として知っている。つまり、ユーモアとは標準状態からのズラし方としてそのような背景をうまく引用するという事である。

 

 

 

 

 

次に、笑いを生じさせる対象に関して理解を深める必要がある。笑いには必ず相手がいる。相手が一人だろうが、複数だろうが、自分が対面している人間を、ユーモアを用いて周囲の笑いを取るのがこのユーモア論の目標である。相手との関係性に関しては階層が存在する。初対面、仕事の同僚、クラスやサークル等コミュニティを共有する友人、家族などである。そしてそれらの人はそれぞれ独自の背景を有している。当然関係が深いコミュニティであれば相手のパーソナリティや背景も知っているだろうし、当然深く関わりのあるコミュニティというのは似たような指向性を持った人物が集まるため、背景や知識レベルが似通うのは至極当然のことである。つまるところ、関係の深さとユニークさを発揮する容易さには相関がある。関係が浅いほど、難易度は高いのである。しかるにまずは、自身の所属するコミュニティからユニークさを発揮することが良いだろう。というかそれで十分である。従って、自身が所属している集団の性質へのより深い理解が不可欠なため、コミュニティの性質に話を移すことにする。コミュニティに属す過程において時間軸が存在する。すでにあるコミュニティにおいては、新参者として参加し、なじみ、溶け込んでいく過程の事である。その時間軸に着目して述べたいと思う。

 

第三節 コミュニティの性質

 

コミュニティ内において、個人は年齢や役職等によって集団における役割、いわゆるキャラを担っている。いじり、いじられ、ご意見番、元気印、相談役などである。これら役割による発言力の多寡は必ず存在し、これらは暗黙的に了解される。もちろん会社などで担当職と役員のようにあまりにも階級が異なる場合はその限りではないが、日常会話レベルであるなら、だいたいは年齢や役職は超えた個人と個人の集まりととらえられる。この役割はどの様に形成されるのであろうか。

 

集団というものは個人を迎え入れる際に、その人のパーソナリティの調査を必ず行う。どこで生まれ育ち、家族構成や恋人の有無、その他のコミュニティの有無や近況などである。さらに話し方や雰囲気でその人物像を想像するのである。この人物は前、あるいはその他のコミュニティにおいてどんな感じなのかといった具合にである。このように会話を通じて、集団における他者は、個人の歴史的背景から近況までを理解しようとする。その上で普段の言動から個人の思考パターンを理解し、その個人をこの人はこういった人だ、という人柄を徐々に認識し、集団における役割が定着していく。たいがいの個人は複数のコミュニティに属するから、コミュニティによっては全く別のキャラであることも珍しくない。むしろそのような場合の方が多いであろう。これらはだいたいが、新参者からなじんでいく初期の段階で行われる。即ち、この段階において様々な側面を認識させておかないと大変なことになる。普段温厚な部長が最近流ちょうな下ネタを言うようになったとしよう。もちろん学生時代からの友人なんかはそういう人間だと知っているから驚かないであろうが、会社ではそんな場面はおくびにも出さなかった場合。周りから見ると、気が狂ったとか、昇進をあきらめたのかとか、心配されるに決まっている。つまりは集団における他者は、勝手に個人の人間性を決定付け、思い込んでいるという事なのである。

もちろんユーモアを発揮する場合も例外ではない。普段、冗談も言わない人間が訥弁ジョークをかましたら、皆様子がおかしいと思うのである。そんなことを言ったら、すでにいる集団においてユーモアを発揮できないではないか、と憤慨される方もあろう。安心してほしい。詳しくは第二章の方法論で述べるが、少しずつ変化させればよいのである。勾配が大きいから皆戸惑うのである。徐々に変化させるのだ。また、集団というものは目に見えない何かしらのバランスを取ろうとする力が生じる。いつも3人で過ごしている場合、1人でも欠けるとなんとも言えない不足感を感じたことがあるはずだ。しかし、そのいつもは3人なのに今日は2人、という新たに生じた関係にも慣れれば不思議とその2人の間での役割が自然と生じる。これが暗黙的な役割分担と言えよう。例を挙げるとドラえもんのび太ジャイアンの関係は非常に分かりやすい。スネ夫や他の仲間が見ている際は、ジャイアンはもちろんいじめっ子である。そのいじめはある種ショーイズムでそれぞれの役割を担っている。しかし、二人になった場合は、ジャイアンのび太に対して相談を行ったり(ドラえもんへの仲介役なだけな気もするが)、弱みを見せたりもする。集団によってはその役割や関係性は変化するものである。コミュニティ内においても対峙する相手によってさまざま変化しているのである。この変化を利用すればよろしい。あるいはこれらの人間関係は秘密性を有するため、このような人数の変化を利用して新たな側面を見せることが出来れば、その関係性はユーモアを獲得するのみならず、仲が深まることも期待できる。

 

 

次にコミュニティにおける話題性、というものを触れ、いよいよ方法論に移りたいと思う。今日はここまでとする。

 

次は東京の不動産屋。テーマはフリーとします。

 

それではまた。

 

文責おがさわら(大阪、28歳)