俺はなんばんぼし

釣具屋と不動産屋の

第σВ回「2021年3月9日 サーミの賜物/言葉は変わるというけれど」

寒い。

寒い、で思い出したが、自分はタイ人と仕事をしている。タイ人と仕事をしている人は誰でも、タイ語を使わなければならない時がやってくるものだ。さあそしてまさに今がその時、といってもタイ語トークをするわけではなく、資料上でのコミュニケーションね、しかも、สวัสคึครัย、などといったタイ語をタイプするわけではなく、銀額を日本円からタイバーツに直す、そのくらいのものだ。幼稚だね。資料はMicrosoft社のExcelなる表計算ソフトを駆使して作成する。Excelはすごいシステムが組まれていて、PCの仕組も知らない素人でもちょっと見、「お?」と思うようなことができて、それがすごいね、Excelは。そんで、数値をタイバーツとして表記したいな、と思うことが自分にはままあり、そういう時は「セルの書式設定」というコマンドを進めていくと通貨の言語を選ぶことができて、めでたく表記欲が満たされるのだ。満たされるためには、あまたある言語の中からタイ語を探し出してクリックする。ところでこの「クリック」という言葉、これってどうなんでしょう。なぜ我々は母国語をつかって「押下」と言わないのか。言わなかったのか。確かに「クリック」する時に「クリッ」と音が聞こえるような気がするので音の響きとしてはニュアンスが伝わるが、「カチッ」とも聞こえる音なような気がするよ。私は。まあそんなことはどうでもいいが、とりあえず我々はあまたある選択肢の中から「タイ語」を見つけ出し、果たして「クリック」せねばならんのである。ところが、タイ語は何を考えているのか、割と選択肢の後ろの方にあるのであって、実に不便なのだ。世の中にはExcelに長じた者が存在するという話があるが、そのような達人であれば毎回タイ語を求めて選択肢の大海を泳ぐ、なんて不細工な真似はしないでキーボードをタタッ、とさばくだけでもう100円を100bahtにしてしまうのだろうが、自分は不細工なので毎度言語の海にこぎ出でねばならない。そういう運命にある。眼球が外国語の羅列をクロールする。

そういうわけで2年ほど前より、さまざまな言語名を目にする日々を重ねる身空でございまして、おかげさまでタイ語が言語海のどの辺に錨を下ろしているのか、それがわかるようになってきた次第であります。ずばり申し上げますと、タイ語の場所は北サーミ語の下でございまして、さらにタイバーツの下には南サーミ語が鎮座ましましているわけなんですね。言語の名称として北や南といった装飾語がついているのは、どうしてけっこう珍しいものでして、タイ語を探す役目を担った者からすると、丁度よい目印となるわけでございます。そんな北サーミ語と南サーミ語でございますが、これどこの言葉かと申しますと、はるかなる北国、フィンランドに伝わる古い言葉だそうでございます。今はもう、解し話す者も少なくなってきているという状況にあるらしく、この辺は日本の方言に近しい運命を感じさせるものがございます。悲しいものでございます。

しかし考えてみれば、我々現代人が話している言葉というものも、いつかは必ず古い言葉になるわけであります。それを駆使することが「イケてる」自分を表現することにつながっていた言葉は、ある時期から死語となり、やがて時代習俗をまとめた文献などに収録されているだけの言葉になるのでございます。そしてその言葉は、現代の考古学者や古代言語学者がその解明に日々精進している古代文明の言葉のように、主を失った抽象思考の権化として、物理的に残存してゆくことになるのでしょう。
いつの日か、ポストアポカリプスを経た地球惑星に、我々現生人類が決定的に出会うことのない知的生命体がやってきて、我らの言葉に出会う瞬間が訪れる。その時を思うと、私はいいようのない興奮を覚え、そこに立ち会うことができないことに悲しみを覚え、そしてできれば、時代の正統派ではない、いわゆるところのスラングに出会ってほしいと思います。「ってゆうかあ、これやばくない?」「やばい、めちゃやばい」という記述を発見したとして、果たして「この物事について、あなたはよい印象を持たれますか、私はよい印象を持っています」「然り、あなたの言うことは尤もであり、私もまたよい印象を持ちます」と解せるのか、甚だ疑問でございます。おそらく関係者の界隈では喧々諤々、火花を散らす論争が繰り広げられるでしょう。その様は見ていて、多分おもしろいような気がするのです。

 

寒いね。

 

文責:不動産屋