俺はなんばんぼし

釣具屋と不動産屋の

第ΛΔ回「2021年3月8日 無題/濡れ男」

今日は何も書くことがない、ということは昨日も思ったことで、昨日は苦しまぎれにローマの文字を使って猫と私の共暮らしの1ページを切り取る、みたいなことをしてみたが今日も同じ手を使うわけにはいかず、書くことがないのなら書かなければいいじゃないですか、と言う人があるかもしれんが、うーむ、確かにその通りで、別に誰にかけと言われたわけでもなく、これにより賃銀が頂戴できるわけでもないのだから、猫を撫ぜて愛情を育んだり夜道のパトロールを勝手におこなったり洗濯機の下のほこりを掃除したり、など何か益があることをやった方がいいのではないか、と自分でも思う、思うが、継続は力なり、という言葉があって、自分は呼吸くらいしか毎日欠かさず続けている行為がなく、ということは呼吸以外の力は得ていないも同然であり、まあ日々を漏らさずヴログを更新したからといって残るのは自己満足以外には見当たらないような気もして、いったいこれを続けたからと言ってなにの力を得るのだろう、なんだか私さみしいわ、といった心境が自分の心のひだの木陰に隠れている。

そういうわけで自分は今日会社に行ったのさ。玄関を出たら雨が降っていた、っていうと、自分が外に出たタイミングで降雨に気づいたように読めるが、部屋の中にいるころから雨が降っていることには気づいていたことは告白しておく。とりあえず、雨が降っていた。が、自分は自転車で会社へ行った。傘もささずに。合羽も着ずに。自分は他人よりも優れている資質や能力に乏しい人間でありますが、雨に対する抵抗力というか、もっといえば雨を無効化する意識・思想といえばいいのかな、とにかく雨が降っている気がなかなかしない、という資質を持っている。例えば他の人が「あ、これは傘が必要だな」とか「一雨きたな」と思って傘を買うなり持ってくるなりしていても、自分は「ちょっと湿度が高いな」「モイスチャーだな」と思うだけで、雨を雨と思わずに往来へ出て行くのである。もちろん、れきとして雨が降っているらしいので、濡れることには濡れるが、はっきり申し上げれば雨とはたかが水分であり、これがカレーとか猫の小便などの水分であれば自分も傘を持ち出すであろうが、しょせんは雨なのでそのうち勝手に乾くのだ。最近はコロナということもあって、どこも換気に気を付けているし、自分がよく通う喫煙所なる場所は常時換気扇が作動しているので、気づけば乾いているものだ。

また実は、濡れる、ということに一種のダンディズムを感じてもいる。あれはタイに出張した時のことだった。東南アジアに特有のスコールに見舞われ、自分は往生していた。雨を雨と思わない自分でも南国の沛然とした降雨には流石に耐性がない。露店の狭い庇の下で、あやしげなブランド時計を売る男の傍らに立って雨が収まるのを待っていると、学生服を着た娘が同じ庇の下に入ってきた。濡れた制服は肌に張り付き、やや艶な感じがした。やがて、まぶしいな、と思って気づいたら、一台のバイクがランプを点けて庇の横に乗りつけていた。バイクに乗っていたのは灰色のTシャツにジーンズ、オニツカタイガーのスニーカーといった出で立ちの細身の男である。バイクのタンクを雨粒が流れ、後続車のライトに反射してきらめいていた。男はずぶぬれであった。Tシャツ、ジーンズはおろか、スニーカーもずくずくである。そして肌がはりつき、細身の体にしまった筋肉が浮き出ていた。前髪にはしずくが垂れ、その下に微笑みがあった。娘は微笑みを返した。男は娘を迎えに来たのである。恋人か、兄弟かは分からない。とにかく、その男はダンディであった。私はあの、バイクが近づいてくる時のヘッドライトのまぶしさが忘れられない。

ということで、雨に耐性があるのだー、などと自分は一応言っているが、告白すればこのようなダンディな男性を意識してやっているのであって、実質が伴わない意図的な行為・見た目から入るその軽薄さゆえに、正味、ダンディズムからほど遠いところに自分は居るのだな、ということも同時に感じてもいる。複雑な年頃である。

 

文責:不動産屋