俺はなんばんぼし

釣具屋と不動産屋の

オガサワラの行方が不明です

いけん、或いはいかん。更新を完全にサボタージュしてしまっていた。オガサワラ氏が現れない以上、自分が書かなければいけん、或いはいかん、あかん。
オガサワラ氏というのは関西地方、も少し詳しく述べると大阪だか兵庫だかそのへんに棲息しているおっさんのことで、自分はしばらく前にこのおっさんと「ヴログなるものをうち始めてみようではないか、たわむれに」などと意気が投合してこのウェヴログをスタートさせたのだった。が、オガサワラ氏の投稿が昨年より途絶えたのである。こらなんど、と本人に問い合わせてみたい気持にも駆られたことは幾度となくあり、まあこのような世の中だから手のひらの機械をちょちょいといじれば事足りるのであるが、どうも気が進まない。というのは「来るものは拒まず、去る者は追わず」を信条としている自分としては、他人の進退にあれこれするのが総合的におっくうだ、という理由もあるが、本心としてはこれではない。が、あまり考えたくない事だ。あまり考えたくない事というのは世の中に無数にあるが、たいていこういうことはさっさと考えて解決していった方がよい、だから言及すると、おそらく「飽きた」のではないかと思われる。
無理からぬことだと思う。見ている人、お互いしかいないしね。話せば5分とかで終わる話を活字にして読ませるっていうのだから、互いにけっこうな労力が必要とされる。まあでも自分は文字として情報に入れるのが好きなので、こういう形をとってきたが、もしかしたらオガサワラ氏はそうではなかったのかもしれない。仕方のないことだと思う。

それでもいつの日か突然、オガサワラが投稿することがあるかもしれないし、自分は誰も読むものがいない文字群を連ねて時間を浪費していこうと思う。สวัสคึครับ

 

文責:不動産屋

 

P.S.
先日、「賭博と国家と男と女」という本を読んでいた。竹内久美子、が著者だったと思う。ははーん、と思う話があった。ひとつ前の投稿で「人は種の繁栄など望んでいない、個体の繁栄だけを望んでいるのではないか」と書いたが、これはちと考えが足りない考えであった。突き詰めると、「繁栄を望んでいるのは人ではなく、遺伝子である」というのが学者の見解らしい。人という個体はヒトの遺伝子のために生き、生き継いで、死んでゆく。のだそうである。個体など眼中にないのである。俺は確固として個体であり、そんな個体の俺はカナシー。
しかし疑問は残る。遺伝子を残すこと継いでいくことが目的であるなら、人の性的快楽の着地点が間違っていると思われる。なぜなら男女ともに自慰行為で達することができるからだ。目的にかなうようにするのであれば、ヒトの体は受精したタイミングで快楽を感じるように設計されていなければならないはずである。人間はまだ未完成なのかもしれない。あるいはいいかげんなだけかもしれないが。