俺はなんばんぼし

釣具屋と不動産屋の

第39回「消えた風景~道端のエロ本~」

思うに。
思うに、なんともさみしい時代になったものだ、っていうのは昨今の河川敷の風景ね。あら、さみしいっすよ。ホント。エロ本が落ちてないのだもの。
昔、っていっても曖昧だからやや説明調にすると自分が小学中学の頃だから20年くらい前のことだ、その頃は河川敷に必ずエロ本が落ちていたものですな。というか、河川敷以外のその辺にも散見され、国道からわきに入ったうらぶれたようなバイパスや林道なんかにも束になって放置されていたものですな。
その頃、落ちているエロ本ほどに胸躍らせる存在はほかになかった。落ちているそれ以外に、赤裸々な女体を見ることがかなわなかったのですから。
今現在はスマート・ホンで無修正のアダルトが気軽に見ることのできる時代だから、なんとも恐ろしい。こないだドン・キホーテへ行ったら、うねうねとしたアダルトコーナーの片隅に、5歳くらいの小児がおったよ。稚児がひとりでアダルトを凝視していた。やれん。

とにかく、当時性的なコンテンツに触れることは今の50~100倍くらい難しかった。そう記憶している。だからこそ、落ちているエロ本を見つけた時は、財宝を見つけたかのように感激したものだった。興奮を感じたものだった。アドレナリンが分泌されたものだった。下手をすれば落ちている万札よりも、それはラッキーなアイテムだったかもしれない。万札を持っていても、気弱な自分にはコンビニでエロ本を買い求める勇気がなかったでしょうから。
その頃の興奮は今でも自分の魂に根を張っており、進む道の先に雑誌らしき物体が落ちているのをみとめると、パブロフの犬のごとく涎が垂れ、ハートがランランになってときめいてしまう。
そして、毎度打ちひしがれるのであった。それはエロ本ではない。というか雑誌ですらない。大概、ぼろきれやがらくた、休んでいる鴨などである。何度、自分はこの裏切りを受けてきただろう。それがぼろきれや鴨であることは心のどこかでは分かっている。しかし、河川敷や道端でそれらしき物体を見かける度、自分のハートは強く鼓動してしまうのであった。そして、急激に覚めるのである。いつか、この時の自分の脈拍を取ってみたいものですなあ、と思っている。

 

なぜエロ本は道端に落ちていなくなったのだろうか。そこにはいくつか理由があると思うね、自分なんかは。
話の流れとしてはその理由を述べるべきなのだろうが、時もはや深更で、睡眠欲が増大しております。つきましては、道端のエロ本が消えた理由について、日を改めてお話させていただければと存じます。敬具。

 

文責:不動産屋(29・東京・コピーライター兼ウェブデザイナー電気工事士兼調理師兼ボタニスト兼ペットシッター兼施設管理技士兼ルート営業東東京地区担当兼家事手伝い兼カラーコーディネーター兼家具職人)