俺はなんばんぼし

釣具屋と不動産屋の

第28回「ケダモノ」

お久しぶりである。3月はなかなか目の回るような日々で、なかなか落ち着いて筆を取ることが出来なかったのである。何があったのかというと、絵を描いていたのである。世間は武漢肺炎だなんだと大変な様相を呈しているが、そういった世相を横目に絵を描いていた。会社は通常運転だったため、会社にいる時間とご飯を食べる時間と寝る時間以外のほぼすべての時間を絵に費やしていた。一心不乱である。別に私は美術部であったとか絵がうまいとか、ましては絵を描くことが好きというわけでもない。しかし、絵を描いていた。何故か。これはもう衝動としか言いようがない。衝動的に描いていたのだ。神の啓示的衝動と名付けることとする。従って、こんなにも更新が遅くなってしまった。東京の不動産屋には謹んで謝意を表明したい。今後はペースを上げてくよ!

ところで東京の不動産屋は無事なのかしらん。

 

あまり書くつもりはなかったが、やはり武漢肺炎の影響は甚だしく、私は生きるうえでなんとも無力であることを思い知った。世間の共通言語の金さえ稼げればなんとか生きられる状況というのはかりそめの平和の中でしかどうやら通用しないらしい。物流や生産がストップした瞬間、金があってもモノは手に入らないのだ。今回はマスクといったものであったが、これが食料であった場合は震えるね。餓死しちゃう。生きるうえでやはり一番重要なものは水と食料なのだ。従って農業は修了しないといけないものである。では農業をするのに必要なものは何か。土地である。土地を開墾しなければならない。農業をすることが出来れば最低限生存の食料が手に入る。食料が手に入ったところで、では水はどうすべきか。現代は国家が安定供給を約束しているが、これが反故にされる時代はそう遠くない。川か海から飲み水を確保するのが良い。あいにく私の胃腸はあまり強くない。雨水や川の水をそのまま口に入れた場合、お腹がぴーぴーになってしまう。ろ過装置を早急に確立すべきである。生存の目が出てきた。電気も重要である。食料の保存に冷蔵庫に一極依存してしまっているが電気の供給がストップした瞬間に食料が腐ってしまう。農産物というのは天候や季節に左右される。冬に食料を採取できない、あるいは天候不順で夏に農作物が取れなかった場合。餓死だ。食料の保存が不可欠である。食料の保存方法を学ぶ必要がある。これは過去の先人が蓄えてくれたものがあるため、なんとかこの知識は吸収できるであろう。食料の保存をクリアできれば電気はさほど重要ではあるまい。明かりなどは火をともせばよろしい。火を絶やしてはならないのである。病気になった場合はどうであろうか。薬草の知識が必要だ。医者が近くにいたとて、薬がなければただの人。そんな頭でっかちは世紀末において不要なのだ。いや、そんなことない。症例を知っているという事は貴重である。そこから必要な成分を抽出しなければならない。従って、女医を奥さんにする必要がある。人生のパートナーは女医で決まりである。それ以外の選択肢はない。なかなか生存確率が高まってきている。世紀末においては理性を失った隣人程恐ろしいものはない。人間自分が一番かわいいもの。極限状態は人をケダモノにする。せっかく生存のための食料を生産したとて、それをかぎつけた暴徒たちがすべてを奪いに来るかもしれない。空手である。空手は必須だ。あるいは剣道。このどちらかは必修と言えよう。暴力に対抗できるものは暴力しかないのだ。そして暴徒を見せしめにつるし上げる。わが領土に侵入すればこうなるぞと。しかし、大多数の暴徒は手に余る。腕に覚えのある悪漢も中にはいるはずだ。武装する以外なさそうである。現代において合法的に武装するには、狩猟免許を取る以外方法はない。従って狩猟免許の取得と銃火器の保持が著しく生存の可能性を広げてくれることに違いない。これだけあれば、しばらくは生き抜くことが出来るのではなかろうか。

現代において、私が出来るのは会社に行ってお金を得る事のみ。雇用される事でしか、生存に必要な金を手に入れることが出来ない。しかもこの金は世紀末においては意味をなさなくなる。この状況は生存におけるリスクが非常に高い。すなわち、現代における本当のリスクヘッジというものは、生存するうえでの食料生産等のシステム構築および知識の習得、必要資格の習得および金を稼ぐ手段を複数持つことなのであろう。保険に入ったりしている場合ではないのだ。サブスクリプションなどは言語同断だ。生存に必要なものを所有することが不可欠なのである。ああ、土地が欲しい。

 

前段が長くなったところで、今回のテーマであるケダモノ。ケダモノとは4足歩行する動物、あるいは人間として品位や理性を失ったものに対する罵倒する言葉、といった意がある。動物に関してはケモノといったその他の言葉があるため、ケダモノの一般的ない意は後者にあるのだろう。さらに言えば、性的欲求に従順なものや倒錯者に対して使うイメージがある。ちなみに私はこの言葉を口にしたことがあまりない。いったことがあるかもしれないが、これは相当強い罵倒用語であろう。この、ケダモノ!いや、使ったことない。よっぽどのことがあるのだろうと推測される。しかし、人間だれしもケダモノの要素を持っている。理性こそ人間を人間足らしめている唯一のものであると、私は思う。しかし、この理性というのは非常に不安定で相対的なものであるため、危うい。一歩間違えれればケダモノに容易になってしまう。世紀末状態において、理性というものが一般的でなくなった場合、このケダモノが普通になるのだろう。どちらが大多数にたいして支配的か、というだけなのだ。現代においてはモラルといった社会規範が民衆に根付いているため、強姦したり外で手淫をしていたりしたら、ケダモノとよばれてしまうだろう。しかしながら、そういったものが大多数となった場合、それはケダモノではなくただの人間である。より人間らしい人間なのかもしれない。

 

ところで、、私もケダモノの気質を持っている事をここに明らかにせねばならない。残念ながら、街ゆく女性たちを片っ端から姦通したいという欲求はない。いい女ダナ、と思っても、そく性的欲求には結びつかない。むしろ知らない人と肌を合わせる事を嫌う。いや、待てよ、でも私は色街を闊歩する事に対して好意的であるし、十分に楽しむことが出来る。知らない人と肌を合わせたくないが、色街においては別なのだ。これは金が介在しているからか、あるいは。こんな素晴らしきダブルスタンダードには目をつむってもらうとして、私には癖のようなものがある。女性の胸の形を想像する事である。女性の顔立ちや肌感、服の上の膨らみ方によって克明に想像する。形状、柔らかさ、乳頭の位置や形状等を克明にである。この程度は皆行う事であると信じているが、知人、友人に対しては行わないようにしている。街ゆく女に対してのみ行う事にしている。これは私の理性なのである。矜持といってもよい。なぜならその人物に対して失礼極まりない高位な気がするからである。しかし、癖というのは無意識に出るもの。なんとなくしゃべっている際に不意に想像してしまう。しかし友人に対して失礼だぞ、と理性がいう。時折この理性は負ける。この瞬間私はケダモノなのでしょうか。逆に女性器の形状はそんなに気にならない。何故なのだろう。だいたい一緒に見えるからなのだろうか。普段みるVHSにはモザイク処理がされており、そもそものサンプル数が少ないからなのだろうか。

あるいは女性は男性器の事を想像するのだろうか。あの人の長さや太さは、鈴の形は私好みかしらん、と。なんとも愛嬌があってよろしい、と私はおもうなあ。

 

 

これ以上私の癖を書くと、貴重な読者の方が離れる可能性があるため、この辺にしておくが、私は私の気が付いていない、あるいは目をそらしているケダモノがいることは間違いがない。その扉を開くことが今後の人生においてあるかは不明であるが、なるべく穏便に人生を過ごしたいものである。

 

今回はこれまで。次回は東京の不動産屋。テーマはフリーとしましょ。

 

文責おがさわら(大阪、29歳)