俺はなんばんぼし

釣具屋と不動産屋の

第68回「視線に関する雑感」

近頃は暖かい日も増え、三寒四温。春が来たのだ。

 

先日、ピザの配達での事。

夜の11時くらい。夜はまだ寒いのねん、とか思いながら50ccのバイクのアクセルを全開に、大阪の夜の一方通行の道を疾走していた時の事。十字路に差し掛かった際にヘッドライトがおじさんをとらえた。ラジオ体操をしていた。十字路のド真ん中で。もちろん車道だ。ぎょっとした私はブレーキをかけ、ラジオ体操おじさん、ラジおじの横で一時停止した。私に一瞥もくれることなくラジおじは、イチ!ニ!イチ!ニ!とラジオ体操を続けていた。いや、そこでやんのはおかしいだろう、と思ったが、怖いのでササッと横を通り過ぎた。サイドミラーでラジおじを見ると、やはり一心不乱に体操をしていた。

イチ!ニ!イチ!ニ!

 

春が来たで、ほんま。

 

視線に関して、東京の不動産屋が記載していた。視線に関して私も思う事がある。

大阪のなんばでサウナに入っていた時の事。

そのサウナはなんば市中のど真ん中の大きなビルの6階とかにあり、なんばのビル群が一望できる露天風呂が付いていた。まことに気持ちがいいサウナであった。

そこで夜に、私もなんばの夜景を楽しもうとその露天風呂に行ったのだが、1人のおじさんが先客としていた。おじさんは露天風呂のふちにおり、夜景を独り占めしていた。私はおじさんの後ろに陣取ることにしたのだが、私はそのおじさんの背中に見入ってしまった。なんという哀愁。背中で語る、という言葉があるが、背中がおじさんの人生を物語っているようで、目が離せなくなった。哀愁がレクイレムを奏でるような、なんとも言えない背中をしていたのだ。私はじっとその背中を眺めていると、おじさんはこちらを振り返り、居心地が悪くなったのか場所を移動してしまった。悪いことをしたと思った。私の視線がおじさんの夜を邪魔してしまったのだ。

 

視線。なぜ気が付くのか。何かに見られている感覚。恐らく望遠鏡越しの遠距離なんかでも気が付く人は気が付くと思う。映画とかでそういうシーンあるし。これは何故なのか。

 

そもそも隠れて見る、という事は狩猟の性質に近い気がする。気づかれないように見る。これは狙っているという事だ。命のやり取りが生じる。視線に気が付かなければ命を落とす可能性がある。いわゆる勘や本能の類いなのだろう。

似たもので、気配というものがある。部屋に誰かいる気がする、森にいった際に感じる野生の動物の気配等。これらは空気の揺らぎを肌が感じる、とか意識までは到達しないもののノイズレベルで感じる嗅覚、聴覚の情報を違和感として脳が気配として察知する、とか説明が付く気がする。しかし目線は特になにの情報も与えていないように感じる。例えばただ人が後ろにいるな、というモノと、後ろに人がいて、見られているな、というモノでは感覚が異なる。視線は確かにあると思う。完全に個人的主観であるが。

 

ではどの部位がそれを察知しているのか。脳みそなのか。テレパシーまではいかないが、脳の働きは電気信号らしい。視線を集中すると電波に方向性が生まれ、その電波を脳みそがキャッチしているのか。あるいは肌がその電気を感じるのか。

あるいは無意識に周囲を警戒しており、たまたま目が合った人の事が強く記憶に残ることで、視線がある、と勘違いしているのか。

 

誰かに、視線を感じた時に、脳みそに電極を付けてどの部位が活発に動いているか調べて欲しいものだ。

 

 

文責オガサワラ(30、無職、大阪)

 

P.S.

ピザの配達はやめてしまった。また無職になる。

しかし、6月から定職に就くので、就労予備軍的無職と呼称願いたい。

釣り具を作る仕事らしい。また、メーカの世界に足を踏み入れてしまった。

なむさん。