俺はなんばんぼし

釣具屋と不動産屋の

第30回「遺伝子のゆくえ」

最近はというと、世相のムードも相まり、自宅で過ごすことが多い。とはいえ、いまだに出勤しているし、夜な夜な街に繰り出すような性格ではない、いわゆる根暗気質のため、そこまで生活が一変したわけではないのだが、それでも休日にお外を跋扈することができないため、やはり家にいる時間が長くなっていることは確かだろう。私に訪れた大きな変化は自炊する機会が増えた事である。私の自炊と言えば、バーモンドカレーとペペロンチーノと時々ペヤング。このヘビーローテーションである。これが自炊が増えたからと言って変わることはない。基本的にこの3種類の料理を食べ続けてきているし、今後も続くことが予想される。もちろん私に手料理をふるまいたい方は大歓迎である。美女であるならなおさらだ。食べる食材もごく限られる。バーモンドカレーには、玉ねぎ、にんじん、しめじ、なすとタンパク質には牛筋だ。鶏肉などに比べ少々値は張るがやはり味が良くなる。牛の油はぴか一なのだ。ペペロンチーノには、玉ねぎ、キャベツ、シメジ、ニンニク、鶏むね肉、アンチョビー。アンチョビーがないペペロンチーノはペペロンチーノではないと確信しているほど、香りという奥行きをもたらす。ペヤングはもちろんそのままだ。ちなみににんにくは青森県産が一番おいしい。中国産は3玉で100円の所、青森県産は1玉300円。約10倍の価格差があるが、出し惜しむべきではないだろう。味から香りから段違いだ。ぜひ試してみて欲しい。と、社会人になって約3年この生活のため、私の体を構成する細胞は、これらの材料から分解される栄養でできている。玉ねぎはほぼ毎食食べているので、血液はさらさらこの上ないだろう。栄養士の方がもしこの文章を読んでいたら、足りない材料をご指摘願いたい。

 スーパーで上述の材料を調達しようとした時にふと、同じものを買い続ける虚しさに気が付いた。玉ねぎ、キャベツ、にんにく、にんじん、なす、しめじ、牛筋、鶏むね肉、アンチョビーにペヤング。あれ、無限に同じものを買い続けている。これってなんだかむなしくねえかあ、と。なんとかして自分で作れないだろうか。肉は家畜を育てるところから始めなければなるまい。悲しいかな、賃貸アパート暮らしの私にそのようなスペースは与えられていない。肉は買い続けよう。アンチョビーはイワシの回遊に当たれば、大量に釣ることが出来るので、今度お外を跋扈することが出来るようになったならば、調理に挑戦してみよう。残るは野菜たち。こいつらなら、プランターで作ることが出来るのではあるまいか。そんな思いから、私は最近プランターでの家庭菜園に挑戦することにした。とはいえベランダスペースには限りがある。どれが適当かしらと熟慮した結果、イチゴとみかんを種から育てることにしたのだ。

 

 とちおとめをスーパーから買ってきて、その種から苗を育ててイチゴを採取できたとする。すると、そのイチゴはすでにとちおとめではないらしい。あまおうでもしかりだ。とちおとめから育ててできたイチゴはとちおとめに決まっていると私は思い込んでいた。しかし親のイチゴの遺伝子と、親のイチゴの種から発芽して出来上がった子のイチゴの遺伝子は、まったく異なるものらしい。それゆえ、子供はとちおとめにはなれない。その上、とちおとめから育てたイチゴはほとんどの確率でとちおとめよりおいしくないらしい。なんとまあ、しかし、冷静に考えれば、おしべとめしべが受粉して出来たイチゴは親の苗とは遺伝子が違うのは当たり前のことかもしれない。混ざっちゃってんるんだから。私の精子はほぼ私。でも誰かとの間にできた私の子供は私ではない。従って、スーパーで買ってきたイチゴの種からイチゴを育てた場合、それはオリジナル品種になるのだ。その辺の権利的なものに関しては種苗法なる法律に譲るが、科学的にも文化的にも同一ではないことは明らかなのだ。では、我々が普段おいしく食べているイチゴは一体何なのかというと、同一の苗から無限にとり続けている、いわば進化を止められた悲しき植物のなれの果てなのだ。この辺のイチゴの遺伝子情報はyoutubeで、miyazaki daisuke氏が詳しく教えてくださる。もちろんこの人とは私とは知人でも何でもないが、イチゴ栽培をするならば見ていて損はなさそうである。

 

このように生物の進化は遺伝子の交配という観点から説明がつくようである。異なる遺伝子が組み合わさることで、突然変異が起きる。思ってもいない進化が起きる可能性がある。特に最近はグローバルな雰囲気が世界中で漂っている。もし、南米の人と日本人の遺伝子が交配したならば、より遺伝的な飛躍が起きやすいのではあるまいか。何故なら地理的に遠く、ほとんどこれまでにない組み合わせであるからだ。とんでもない新人類が生まれる日は遠くないかもしれない。

 新しいものを好む、という人類共通の嗜好は、あるいは遺伝子の言いなりになっているからかもしれない。現代日本においては一夫一妻制であるため、もちろん不倫などはとんでもないことであるが、歴史を見渡せば、一夫多妻、一妻多夫など当たり前にある。これは至極当然であり、より良い子孫を残そうと思うならば、様々な遺伝子と交配させた方がその確率は上がる。従って、不倫してしまうのも、淀んだ欲求の裏には遺伝子の意思があるのかもしれぬ。はたまた、より良い家督を残すのはお家のため、などと言いう思考そのものが、遺伝子の意思がそうさせているのかもしれない。

 かような具合で最近は遺伝子と植物に興味深々な次第である。ところで、植物と言えば、非常に合理的なシステム化がなされているように思う。水分や栄養は近くから勝手に吸収し、光があれば勝手に光合成をして酸素を生む。花粉が飛べば勝手に受粉し、遺伝子を運ぶ。かように、生存に関わる機能がシステム化されている。いわば面倒くさがりの象徴である。手塚治虫火の鳥、宇宙編を思い出す。流刑地の惑星では人間が植物に変わるという話があった。これは、当時はなんとなく植物に変わるなんて怖い、と思っていたが、かような観点から見ると、植物というのはいわば合理化の極地にあり、近代化が進んだ人類のなれの果てである、という手塚治虫の警鐘的デザインだったのかもしれないなあ、としみじみ思うのである。

 

てゆうか私はどこからきてどこに行くのだろうか。教えて遺伝子ちゃん。

 

今日はここまで。次回は東京の不動産屋。テーマは「夕飯」にしましょう。

 

文責おがさわら(大阪、29歳)