俺はなんばんぼし

釣具屋と不動産屋の

第48回「ゴムの木生兵法」

ベランダにゴムの木が鉢に入って置いてある。なぜ自分のところにあるのか、その経緯をまったく覚えていないが、横から貰ったものだと思う。札幌にいた頃に貰ったのだろうが、このゴムの木ときたら、あの頃はほとんど生長というものをしなかった。ゴムの木の原産地がどこかは知らないが、寒い地域の植物ではないと思われる。おそらくは亜熱帯から熱帯のような暑い場所に生えているものなのではないだろうか。本来はそういう場所で育つのだとすれば、北海道で生長しないのも無理はない。寒さが厳しくない時季はベランダに出していたが、晩秋から早春にかけては室内に移した。北海道の冬は長い。でもそれも、室内は屋外よりマシというだけのことで、中にまともな暖房器具はなく、自分はひとり湯湯婆をかかえて布団にくるまっていたのだからゴムの木には悪いことをしたと思う。あの頃は自分は貧乏で、人並みの暖房環境を備えることができなかったのだ。極寒ではないが寒いことは変わらない空間で、ゴムの木は新しい葉も出さずにじっとしていた。出せなかったのだと思う。やはりゴムの木には悪いことをしたと思う。ゴムの木に人間の感情のごときがもしあったならば、きっと自分を怨じただろう。だから東京に自分が移ることになったことは、ゴムにとってよかったことといえるだろう。


地図帳を見ると日本列島の大部分はCfa、温帯湿潤気候に分類されており、東京もその中にある。気候区分は平均気温や降水量、植物によって分けられているのでなんとも言い難いが、それにしても東京の夏は酷暑そのものであって、けして温帯などといった風情は感じられないような陽気がさんさんと降り注ぐ今日この頃でありますが、ゴムの木は今日も快調そのものであります。
暗く寒い冬の時代が終わったといわんばかりに、梅雨明け頃からぐんぐん生長しだした。葉は札幌時代の4倍ほどに増え、全長も2倍ほどに伸びている。水を得た魚、鎖から解かれたタロとジロ、包丁にぎった料理の鉄人のごとく自由闊達にして天衣無縫、この世の春ならぬ夏を謳歌しているのである。

謳歌しすぎであった。奢れるもの久しからず、などと昔の偉い人は言ったがいわんこっちゃない、「護謨の木は 蝉に焦らされ 陽をあみて あわれなるかな あわれなり」といった風情で没落しているのであります。かなしいことであります。調子にのってゴムのやつ、葉を増やし過ぎたのである。
なぜだか知らないが、日に日に新たな若葉を吹き、幹も天をさして伸長していくにもかかわらず、横には生長しない。幹の太さがまったく変わらないのである。札幌時代と比べてもそこに生長がみられるどころか、葉が増え上に伸びている分、相対的に痩せているように見える。そして今や自らの葉の重さに耐えられずだらしなく傾斜して、口があるならダリーってだるそうにこぼしている、みたいな感じになってしまった。
情けないことである。

この調子で不良化が進むと背骨すなわち幹が折れてしまうような気がしたので、ゴムを更生させるべく背筋伸ばしの支柱をさしてやったのが今日。支柱に寄りかかることでなんとか様になっているように見えるが、いつまたぐれるか分かったものではない。幹を太らせずに見た目の良い葉や高さばかり求めるスタイルでは、遠くない将来ゴムは再び介護が必要になるだろう。


植物、というか野生のものはそれぞれの時と場(環境)に適応してうまくやっていくものだと思っていたが、このゴムの木の阿保野郎はなにを考えているのだろうか。
もしかしたら鉢の幅や深さがあっていないなどの初歩的な問題があるのかもしれないが、なにが原因かは分からない。ひょっとしてゴムの木ってこういうものなのかもしれない、自分はフツーに育っているゴムの木を見たことがない。
とりあえずまあ、こんな感じの本末転倒なゴムの木を日々眺めて自分は頭を抱えて、基礎って大切なんだナア、肝要なんだナア、と幼稚な想念にぼんやりとしているのであります。

蝉が鳴いてゐる。

文責:不動産屋

 

P.S.
今思いついたが横に生長しない原因はエアコンにあるのかもしれない。エアコンを稼動させると室外機から熱風が排出されるが、この室外機の前にゴムの木は置かれている。熱風がダイレクトに当たることで疑似的な南国空間がそこに現出しているのではないか、それでゴムの木はパラダイス状態になりバグったように葉を繁らせているのではないだろうか。また、送風が頻繁に行われる地点であれば放出した酸素と吸収すべき二酸化炭素代謝も加速されるに至り、これまたパラダイスの要因となるのではないだろうか。

テレ・ワークでオフィースに通わなくなってからというもの、エアコンは休む間もない。関西のオガサワラがぬるい空気をかき混ぜる扇風機の前で溶けていくのをよそに、東京の自分はペンギンのようにひんやりとしたエアコンルームで地球温暖化活動に勤しんでいる。
幹をおろそかにするようなドーピングを施していたのは、ほかならぬ自分だったのかもしれない。