俺はなんばんぼし

釣具屋と不動産屋の

第47回「僕らは色彩の記号で写生する」

スターデューバレー、なる農場経営シミュレーションゲームに憑りつかれて幾星霜。
というほどではないがまあ、3週間くらいか、明けても暮れても農場のことで頭がいっぱいであった。おかげさまで睡眠時間は日々2時間ほどしか確保できず、たいへんつらい毎日であったが、一応のゴールとしてエミリーとの結婚を迎えることができたので、とりあえず徐々に放置していこうと思う。エミリーには申し訳ない気持です。というわけで更新いたします。敬具。

 

 
ところであのですね、集中力、なんて資質というか言葉、考え方がありますでしょ。
わき目も振らずに一つ事に全神経を傾けて臨む、みたいな状態を保つことをさしてると思うんだけど、それが弱いんですな、自分の場合は。
例えばテレワークなんて昨今のブームに合せて自分なんかもやっていますが、あれはだめですね、仕事にならない。仕事ができない。
ちょっと用足しに、とか、ちょっと咽喉あたりを潤しに、なんて離席すると、そこはもう生活空間でしょう。いちおう、自分方で仕事をする時は気が散らないように本だの地図だのファミコンだのを片付けて手帖とPC、電卓しか眼に入らないようにしているんだけど、その仕事ゾーンはきわめて限られた空間であって、その他の9割方の空間は日常生活の領域なのね。
仕事って非日常だから、日常と相性が悪い。しかも非日常ってことは、本来はそっち側に属していないというわけだから、日常がそこにあれば水が低きに流れていくがごとくにそこへ流れて行ってしまう。
そして、その辺に適宜放置されているポー全集だのアバンチュール21だのミロ画集だのを開いては固まって、気づけばベランダでマングローブに水をやり、ゴムの木にも水をやり、生長しすぎて傾いだゴムの木を不憫に思って支柱を買い求めにサンダルつっかけて往来に出る、みたいなことになり部屋に残されたアイフォーンは虚空にむかい着信を告げる。

そういうわけで自分は集中力が弱く、一つ事に精神を統一し取り組むことができない人間なのです。
これは例えばAV、いわゆるところのアダルトビデオ、なんてものを鑑賞する時も同じで、この前あるAVを見ながらにして思ってしまったのだけれども、自分は今いったいなにを見ているの、という気持がむくむく湧きおこって、自分はAVに集中できなかった。
なにを見ているってもちろん、女の裸あるいは裸の女とその取り巻き達が画面に映っていて、それらを自分は見ている。それはそれで間違いないことなのだが、モニターに映るそれらの女や裸や取り巻き達を構成するものは何なのか、を考えてみるとそれは画素っていうのかな、カラーバーっていうのかな、つまり様々な色に変わるように設計された細長い色彩の集合体なんですよね。よく家電量販店のテレビ売り場に「新しいこっちはこんなに画質がいいんです」って宣伝するためのサンプルボードがありますでしょ。AVの女も裸も、仕組みとしてはあれなのだ。
そういうことを思って考えながらも、身体だか脳みその半分はAVを見ているために生理反応を起こし、やがて放たれて、じきに冷静に覚醒した気持になる時が訪れて状況を思い返してみると、自分はさっき裸の女を見て興奮したが、同時に客観的には色彩の配列を眺めることによっても興奮していた、ということになる。

ただもちろん、単なる色彩の配列だけでは射精には至らない。
そこに記号というのかね、色彩があるパターンで集合することで意味が生じなければならない。色彩の並びが「裸の女」を意味する並びであってはじめて、自分は射精に至る。色彩の組み替えいかんによって、射精が左右されている。
とすると、裸の女を構成する色彩パターンを組み替えて、例えば砂漠や木の机なんてイメージを持たせることもおそらくできるのだろう。性的な意味を込めて並べられた記号を、まったく別の記号に置き換えられるのだ。
これは逆も考えられて、よくあるモザイクアートのごとく、肌に近しい色の風景(パキスタンの街並みとかレンガの壁みたいな写真)を適切に配置し、遠景で焦点を合わせればそこに記号としての「裸の女」が現出するわけで、たぶん自分は射精できてしまうんだろうな、と思う。実際に見ているものは風景写真なのに。自分が今まさに見ていると信じ切っているそれは、確実に「それ」だという事ができない。そこはかとなく、それは「それ」なのだ。

こうしたことを考えると、デジタルなポルノ作品に脆さや幻のごときものを感じる。自慰行為の隔絶性・単独性に限りない果てを覚えてならない。ならないぜ。ならないんだぜ。
コギト・エルゴ・スム!!!

 

文責:不動産屋