俺はなんばんぼし

釣具屋と不動産屋の

第79回「一級河川のほとりで膝叩く私は低圧ナトリウムランプが好きさ」

一級河川、低圧ナトリウムランプ、草いきれ、夕凪、というかもはや夜凪、男は黙ってサッポロビール。これが最近のわしのスタイルじゃ。自分は今31歳でまだ爺ではないが、語尾はじゃなのじゃ。しかし自分は、~じゃ、だの、~なんじゃよ、としゃべる翁にいまだかつて出会ったことはない。このイメージは自然に植え付けられてしまったものなのだろうが、おそらくは昔、週末の早朝に放映されていた日本昔話、あるいは私の爺が情操教育の為に購入してきたイソップ物語のVHSに起因すると思われる。

そんなことはどうでもいいが、本日飲んだサッポロビール園監修のビールはうまかった。思わず膝をたたいてしまったほどに。
何かの拍子に何かをたたくという動作は、考えてみれば、なんなのだろう。
なにか分からなかったことが分かった時、思いがけない僥倖に立ち会った時、思いがけていたが思いがけていた通りに事が運んだ時、緊張から解放された時、相手の意図をくみ取れた(と錯覚した)時、人は自然と手を何かしらに叩きつけている気がする。
ポジティブな噴火みたいなもの、噴火口から餅や紙吹雪が噴出するようなそんな感じの噴火のごときを感じる。

なにか攻撃的な心持ち、怒りのような感情を抱いた時にもやたらと周りの壁やベンチや他人などを叩くことがあるが、それとは歴然とした一線を画しているような気がする。

よく、昭和のオヤジが「一本取られましたな、あっぱれ」みたいなことをいう時に自らの頭をぴしゃり叩くことがあるが、これは実にキュートな動作だと思う。まあそんなオヤジも見たことがないが。

叩くことは破裂することであり、破裂すると人はびっくりするものであり、びっくりすることは人と人の良好なコミュニケーションを築くうえで有用であるから、どんどん膝や頭を叩いて生きていったほうがいいのかもしれない。
しかし何事も限度があるだろうから、おそらく、一日に何回まで、とか、週に何度まで、とかインスタントな指南が出てきそうで、やだな、と思う。

 

東京の一級河川沿いの草むらは、北関東の匂いがして、自分は実に安堵する。
川の向こうに低圧ナトリウムランプが並んでいて、その橙が目に沁みる。
何かを運ぶ大型トラックが連なり、社会は運搬と交換によって成り立っているのだと感じる。
確たる目的をもって横に流れていくトラックと、あてどなく黒い水面でゆらついている橙とを眺めていると、明日もまた頑張ろう、という気にはならないが、深呼吸したくなるような気持になる。それで深呼吸する。だからといって、別にどうということもないけども、それは割と気持ちがよい。

 

文責:不動産屋