俺はなんばんぼし

釣具屋と不動産屋の

第90回「なくなりつつあるもの」

会社に通うのに私はバスを利用している。朝日を浴びた美しい大通りで毎朝バスを待つためにぼけーっと突っ立ってる。んで、大体毎朝バス停の横を2人の警官がチャリンコに乗って駆け抜けていく。

 

朝早くからサイクリングなんて大変だねえ、と毎朝思っていた訳だが、ふと気になることがあった。

それは、警官のチャリンコの荷台に乗っている黒いハードな感じの箱である。すごく薄くて書類しか入らなそうなやつ。伝わるかな。こち亀とかだと白かった気がする。それでその薄くて小さい箱に何を入れてるのかが気になったのだ。

 

そして私はスマートホンをスチャと取り出して調べようと思ったところで、ふと気がついたのだ。自分の脳みそで考えることが減ったことに。もう少し具体的にいうと、目先の答えに快楽を覚えているのだ。

 

なんて書いてて、おや、似たような内容を前にも書いたような気がするが、あまり気にしない。書いた本人が覚えてないのだ、読んだ人は尚更覚えてないだろう。

 

人というやつは答えに飢えている。あやふやなものはあまり好きではないのだ。これは教育課程にも問題がある。一つの解、その正答率で優劣をつける。最近はどうなんだろう。もうちょい柔軟な感じになってるのかしらん。で、学徒の間、大半の人は生き方が決まっている。大学に行く、就職する、バンドをやる、俳優になる、など先人が誰か歩いた道を歩く。真に新たな道などない。たいてい、ある部分で既存の踏襲が必ずある。答えらしいものがあるのだ。

 

しかし、年を重ねるごとにあやふやになる。その道に実際に乗ると、あれ、となる。大海原みたいなもんで道らしい道はなく、ほやほやと漂うのだ。自由度が増すのだ。何をしてもいい。進んだ道を極めても良いし、辞めて新しいことをしても良い。何せ長い。

 

で、みんなどうして良いか分からなくなる。あやふや万歳。

 

で、刷り込まれた単一解答主義がむくむくと顔を出す。答えを求める。そうやって人は宗教やらカルトやら、はたまた会社やらの言いなりになる。それをやれば良い、そのままで良いと答えをくれる。

 

で、ちょっと話を広げると、ちょっと前からひろゆき氏とかホリエモン氏、岡田斗司夫などが人気を博している。なぜかというと、ある事柄について断定的な物言いをするからである。これはこうです、みたいな感じ。これはその事柄に対して答えを用意してくれている。そういうことなんだ、と多くの人にとってこれは快感なのだ。僕も彼らの動画はよく見てしまう。はっきり言って好きなのだ。

しかし、そう言った断定的な物言いというのはあらゆる可能性を考える我々の脳みその機能を奪っているのだ。

私はこう思う、あなたは?

このやりとりが重要なのだ。スチャとスマホを出している場合ではない。この記事を読んだ人はすぐに実践すべき事象がある。

 

それは、警官のチャリンコの荷台の箱について誰かと議論することである。

 

あの箱、なんだと思う?私はこう思う。

あなたは?

 

スチャとスマホを取り出そうものなら、正々堂々説教をかますべきなのだ。想像せよと。

会話を楽しみたまえと。

 

最近、こう言った会話がなくなりつつある。情報の交換ばかりだ。そこに感情なり思想なりを乗っけることが最近なくなりつつある。

 

 

文責おがさわら(大阪、31、サラリーマン)

 

PS

久々に働き出した訳だが、やはり会社は労働時間ではなく拘束時間に賃金を払うべきである。

通勤きっつ…