俺はなんばんぼし

釣具屋と不動産屋の

第91回「焦るナマケモノ」

よく、ドアにぶつかる。というとよく分からないかもしれないが、そうなのだから仕方ない。ドアってドアでしょう、ドアってことは、ある時は閉まっていて、またある時は開いてる、その開け閉めの繰り返し、繰り返されることにドアの本分というか、ドアのドアたる性質がありますね。
ドアをこえてその向こうへ行こうとする時、僕は手でそのノブを回す、センサーに反応させる、釦を押す、ドアそのものを押す、などの動作を以て向こうへ移動するわけだが、どうしてか、この時に勢い余ってぶつかる、そういうことが多い。
ドアが開かないと向こうへ渡れないのに、そのドアが開く前からもう前に進んでいる。それでぶつかる。はたから見ると抽象的な動作をしている人、あるいは性急な人のように映っていることだろう。

しかし、本当にそうなのかもしれない。僕は常に焦っている。常時、性急である。複数人と歩いていて、気づけばひとり、先の方を歩いていることがままある。それって別に性急っていうわけじゃなくて、自分勝手なだけやんけ。そういう声も聞こえてくる。いや、別に本当に聞こえてくるわけではないが、第三者的にそういう自分を虚空から見下ろすイメージで、自分勝手な奴にしか映らないわけ。また、出社に遅刻することが恐くて眠ることすらできず、気づけば払暁、今から寝たのでは確実に寝坊する、って新聞配達が終る頃に部屋をおん出て、AM6時にオフィースにひとり佇み、寝ていないものだからみながAM9時に揃う頃には睡魔と戦っている、みたいなこともままある。
やばいじゃん、これって矯正さるるべき性質じゃん、と東京語で思ってはみるものの、もはや手遅れかもしれん。なにかの本で読んだのか、他から聞いたのか覚えていないが、人間の性格・性質・人格の核は満25歳までに形成・確立・成形されるらしく、僕は御年31也、つまり性格・性質・人格の核がリバイス不可能な地点に達していると思われ、目の前に広がるこの先のゆく年くる年に暗雲がもわわと立ち込めて候。

なのでもう仕方がない、これからも自分勝手をベースとして生きていくのだろうが、なるべく自分勝手の毒を周囲に影響させないようにしたい、そのくらいの良識は持っている。
となれば、まず、このドアにまつわる癖をなんとかしなければならん。そう思う。なんとなれば、僕が焦ってドアにぶつかることを繰り返すことで、ドアが必要以上に経年劣化し、破損する、故障する、ガタつく、総じてアッパッパな感じになるなどして、ドアとして機能しなくなったら、他は迷惑するだろう。今は夏だが、おそらく次は秋がきて、その次は冬がくるはずだ。30年間で培った経験からいって。木枯らしが室内に吹き込まないようにドアというものはある。ドアがなかったら、みんな凍えてしまうし、なにより自分が寒い。あっ、また自分に終始して自分勝手な思惑を抱いてしまった。よくないことである。

そういうわけで僕はドアを開け急ぐあまりにぶつかることを控えていきたいのだが、どうすればいいのだろう、やはりなるべくドアは通らぬ方がいいのかな、などと愚考していたが考えてみれば、この焦り癖は他にも顔を出すのではないか、と不安になってきた。
たとえば。たとえば、自動改札機、東京だとメトロなんかにあるあれだ、あふれる有象無象が互いにかつ瞬時に各々の動線を見極めあい、なんら滞ることなく流れていくあれである。ここで焦りが出ると悲惨である。自動改札では各自が各自の電磁定期なるものをかざすことによって各自の会計を瞬時に済ませているが、この時に焦ると前の人と同時に改札を出てしまう、そのようなことがあるのではないか。通れれば自分がキセルでお縄になるだけだが、なにかのチョンボで前のおっさんまで巻き込んでしまうことも考えられる。
ドアにせよおっさんにせよ、前の動作・仕草が完了していないのに、わたた、って焦燥に駆られて次の動作・仕草に移行してしまう、要するに因果関係を無視している、それがよくないのだ。
おそらく他に、料理が運ばれていないのに会計をしてしまう、プルタブを上げていないのに缶に口をつけてしまう、パスタをゆでている途中にソースをからめてしまう、猫が食べきっていないのに餌を補充してしまう、電話が鳴る前に電話に出てしまう、食後のくすりを食前に呑んでしまう、鳥かごを買う前に鳥を買ってきてしまう、クリスマスに節分の準備をする、お好み焼きが焼かれる前にひっくり返してしまい結果として抽象的な食物を食すことになる、みなしごハッチを観る前に泣いてしまう、駒を並べる前から王手をかける、蚊に刺される前にかいてしまう、風呂に入る前にビールを飲む、ピッチャーが投げる前から一塁に走る、裁判が始まる前に「勝訴」の半紙を掲げる、8代先の子孫の名を墓石に刻む、淀川に飛び込む前に警官に連行される、31歳で老人ホームの下見にゆく、たんぽぽの花がいまだ咲いているのに息を吹きかける、などの奇行愚行におよぶことになり、人に軽んじられ、出世は覚束ないだろう。

出世が覚束ないくらいならまだかわいいものだが、もし他の動物だったらどうだろう。蝶は蝶でも、鮫は鮫でも、それぞれに性格や気性というものはあるはずだ。蟻のコロニーのうち、4分の1だかそんなはサボり組に属する、そしてその割合は母体の頭数に比例する、という話をじいさんから聞いたことがあるが、そうだとしたらある生命体に異なる性質・性格があるということになる。冷静な蝶もいれば焦りの蝶もいる。そういうことだ。

もし焦りの蝶だとしたら悲惨だろう。蛹の時間が十分でないのに羽ばたこうとして落下、オケラの餌食となる。焦りの鮫も悲惨である。十分な大きさに成長していないのにやたらと大きな顔をして海中を練り泳ぎ、結果、ナポレオンフィッシュに捕食される。焦りの象、焦りのミーアキャット、焦りのトムソンガゼル、焦りのアイアイ、焦りの白鳥、焦りのゾウリムシなども同じことだ。しかし、焦りのナマケモノはちょうどよい具合にブレンドミックスされて、いいかもしれない。
ナマケモノだったらよかったのに。などと思う時点でナマケモノなのかもしれない。ということはちょうどミラクブレンドされている、ということで、明日に希望を感じて眠りにつきたいと思うが、やはり言い知れぬ不安におそわれて明日も6時オフィースにいるのだろうなあ、と思われる。もはや本日。

 

文責:焦る不動産屋