俺はなんばんぼし

釣具屋と不動産屋の

第二回「関西の農機具屋」

 はっきり言って私は人と話すのが得意だ。関西風に言うと、「べしゃりがうまい」のである。老若男女分け隔てなく笑顔にすることが出来る。特に女性は簡単である。いともたやすく幸せの渦に巻き込むことが出来る。言い過ぎた。もちろん苦手な分類の人間も一定数存在する。なんとなく「苦手」なタイプの連中だ。感覚として苦手であると感じるので、「苦手」なタイプを言語化して説明するのは難しい。なので、おいおい分析がすんだらなぜ苦手なのかを説明することにしよう。とはいえ、少なく見積もっても7割の人間をファンにすることが出来る。これを話すのが得意と言わずして、なんというのだろう。つまりは、私は類まれなるユーモアの持ち主なのである。

 しかして、ユーモアとは何か、を言葉にするのは非常に難しい。プロのお笑い芸人なんかはユーモアとは何か、どうしたら笑わせられるか、という方法論を確立しているのかもしれない。つまりは言語化して説明をすることが出来るのではないかとにらんでいる。しかし、私の場合は少し違うのである。ユーモアを身に付けている。というのも気が付いたら口から出ているのである。そう、ユーモアが、である。脳みそを介している感覚は一切ない。その場の反射でついついユーモアがあふれてしまう。道行く人を笑顔にしてしまう。まったく困ったものだ。おそらく無意識的に、この場合はこう、こういうタイプはこう、この空気感ならこう、と知らず知らずのうちに染みついており、ある種パターン化させている。どういうパターンかを説明できれば良いのであるが、玄人にはもうお分かり。パターン化されているの事は、相手にばれてはいけないのだ。従って、あるパターンを派生させて新たなパターン生み、そのパターンがまたパターンを生み、パターンがパターンを生む、無限の彼方まで発散してしまうほどのバリエーションを持ち合わせているのである。しかも無意識化下のなかで。これはもう天才なのだ。

 ところで笑いとユーモアは若干異るという持論を私は持っている。小島よしおをご存じだろうか。私は彼が非常に好きで、見るたびについつい笑ってしまう。しかし彼の芸の中にユーモアはない。あるのは勢いと筋肉だけである。それでも面白いし、多くの人を夢中にさせている。つまりはユーモアの先に笑いはあるが、笑いの中にユーモアがあるとは限らないのである。それほどユーモアとは繊細かつ説明の難しい摩訶不思議なものだと確信している。

 私はこの類まれなる才能を独り占めにしてしまうのは惜しいと考えている。多くの人がユーモアにあふれれば、ユーモアはぶつかり合い、シナジーとなる。ユーモアのシナジーは計り知れず、核エネルギー量を優に凌ぐという論文すら出ているほどである。

つまりは、私はこのブログで「ユーモア論」について語っていこうと思う。これは非常に骨の折れる作業である。無意識に行ってきたことを体系的に言語化しなければならないのである。しかも誰でも使えるという形で。すでにやりたくない。でも、ユーモアが欲しい、どうしたらあなたのようになれるのか、という悲痛な叫びをたびたび耳にしてきた。そのたびに私は「いやぁ、器が違うんすよ」などと訳の分からない言葉をつかい、相手を失望させてきた。今こそこの世に発信していこうと思うのだ。

 

 こんな訳の分からないブログでいきなり、私ってユーモアのある人間なんですよ、なんて書いてあったところで誰も信じまい。確信が持てる。このブログ名をgoogleで検索しても出てこない始末である。てか、この文章誰が読むんだろう。

しかし、何度も言うが、厳然たる事実がある。私はユーモアであふれている。

とはいえやはりある程度は証明を行う必要があると思う。それには大いに賛成である。ところで、さくらももこ氏をご存じだろうか。私は彼女の熱心なファンなのであるが、なぜ、彼女の書くものはあんなにも多くの人の心をつかんでやまないのか。当然であるある。ユーモアがあるからだ。漫画から、文字からユーモアがあふれてきているからだ。というわけで、さくらももこに憧れる私としても、「エッセー」を通して、私のあふれ出るユーモアを証明する事とする。

 

関西の農機具屋の回では、「ユーモア論」と「エッセー」、更には「東京の不動産屋からのお題」に関する文章を書いていくつもりなので、お楽しみにしていてほしい。

 

ここに東京の不動産屋に感謝の念を伝えたいと思う。ブログ開設、どうもありがとう。

次回は東京の不動産屋。

 

文責オガサワラ(関西、28歳)