俺はなんばんぼし

釣具屋と不動産屋の

第八回「ユーモア論 序論」

 ところで私事であるのであるが、先日、社用車で交通事故を起こした。と、ここまで書いたところで妙な事に気がついた。私事であるが、が正しい日本語だと思う。しかし、私事であるのであるが、と無意識に書いていた。なんだか余計なものがいっぱいくっついている気がする。敬語にすると、私事でありますのでございますが、といったところか。文章なのだから本当は文語で書かなければならないところを、口語感覚で書いている私の稚拙さが故なのでしょう。でも後者でも意味は通じるし、なんだか可愛らしい感じもする。日本語の、おかしみ、として目を瞑っていただこう。

 

 文章で口語を使ってしまう理由としては、単純に日本語力が無いからである。いや、そうでもない。私は大学を出ているし、なんてったって修士号だって持っている。それに押しも押されぬ立派な社会人。報告書の一枚や二枚、きちんとした”ビジネス文章”を駆使して仕上げちゃえる。それでも、口語を使ってしまうのだ。なんでかね。思うがままに書くととこうなっちゃうだけなんでしょう。要は私の文章の、言葉を作るリズムがこういう感じなのです。でもこれってつまり、口語というくらいなのですから、まるで話をしているような感じを醸しているのではなかろうか。文章を読んでいるのに、話を聞いているような錯覚を起こしているのではあるまいか。これは、ブルーバックスシリーズのような世にも役立つ石頭たちには真似できまい。これこそが路傍の石くれのように誰の目にも留まらないこのブログならではの魅力なのでしょう。すったんたたんたたんたーん。そういう事にしておきましょう。リズムリズム。文章におけるリズム感というものはあるいは研究テーマになるかもしれない。

 

 文章を口語にする事によって直接話しかけられている様な錯覚に陥る、というものをさらに発展させて、脳内に直接話しかけられる感覚にする、という面白い用法がある。どういうものかというと、カッコを使うのだ。古典的用法で、小説や漫画なんかで心情を表すのによく用いられている。(最後までちゃんと読めよ)

とするとなんだか脳内に話しかけられている感覚がするでしょう。いわゆる口で言う言葉は、この文章における文の事で、心情、つまり筆者である私の心の声はカッコの中身と言う事になる。セリフと心情、あるいは本音と建て前の境界をカッコという記号で同時に表せてしまう便利用法なのだ。使ってみるとよいでしょう。

 このようにカッコ用法で実感してもらえたかと思うが、文章における面白さの一つは、同じ次元にないものをひとまとめに把握する事ができる、なのではないでしょうか。肝要なのは、文章は次元をまたぐことができ、次元を跨ぐことは面白さという点で非常に重要な要素なのである。どういうことか。

 

 文章、特に小説なんかは登場人物が思っていることをバシバシ書いちゃう。純文学なんてものはちょっと例外。描写文で読者に想像させることが多く、なかなか心中察せられません。月がきれいですね、なんて言い出す始末ですよ。やだ、素敵。でも大衆小説なんかは、思っていることを言っちゃうのだ。書いちゃうのだ。だから登場人物たちが思っていることがわかることが多い。言葉と、その裏腹である心情の二次元ある世界は決してまたぐことが出来ないのに、またぐことが出来る。もちろん想像に委ねられてるシーンはふんだんにあるんですけど、時折またぐ事ができる、覗く事が出来る。現実世界では決して味わえないことを楽しめるのが小説を読む面白さなんでしょう。ちなみにこのブログにおいての登場人物は、書いている私。文章におかしなとこはないか読み返す私。誰か読んでくれてるかな、なんて淡い期待を寄せる私。

最初から、最後まで私しかいない。なので思っている事しか書いていないし、そもそも私一人しかいないのであるからして、当然この文章には一次元しかない。でもね、さっきみたいにカッコを使うと、さらにもう一歩進んだ私の心の声みたいなものをあたかも存在させちゃえる。なんだか収束する気がしないので、この辺にしておきますが、この次元間に大きなギャップがあればこそ文章独特の、おかしみ、が生まれるのではなかろうか。

 

先述しましたが、現実世界においては、口からでる言葉と、心で思っている事、本音と建て前の二つの次元が存在する。しかし、相手の話す言葉しか理解できない、一つの次元しか見ることが出来ない。面と向かって会話をしていようが、言葉と心の中で思っている事の二つの世界が常に存在するとはこういうことで、この二つの次元は不可侵なのである。例えば、恋人と待ち合わせをしていて、自分が遅れてしまったとしよう。ごめんと謝る。怒ってないよ、次から気を付けてね、と言われる。相手の話した言葉という単一次元しかわからないのだ。もしかしたら怒っているかもしれないし、遅刻の常習犯だとしたら、新たな発電のエネルギー源になってしまうほどの怒りエネルギーが蓄積されているかもしれない。相手の考えていることなど露ほども分からないのだ。もし、サトラレのように相手の思っていることが手に取るように分かったのなら、世の中の人はこれほどまで色恋沙汰に熱中しないだろう。ああ、意中の女性は私のことをどう思っているのかしらん、と布団の中で悶々としたことがあるはずだ。他人の考えていること、思っている事を正確に理解したい、なんてものは考えるだけ無駄である。だから、言葉以外に、表情や仕草、感じから察するしかないのだ。国語的に言うと、行間を埋める、という事なのです。何という歯がゆさでしょう。歯間ブラシでいくらシーシーやったところでこの歯がゆさは消えません。行と行の間をシーシーしなければならないのです。でも、この作業が現実世界の人間関係における一番の、おかしみ、だと確信しております。

 

やはり私は少々前置きが長いきらいがある。ユーモア論について書こうと思っていたが、いつのまにかなんだか関係のなさそうなことを書いていた。危ない危ない。ところが、このいかにも無駄で、蛇にいっぱい足がついちゃっているような奇怪な文章の中にも、ユーモアというものに対する深い示唆が、鋭い考察が含まれているのです。

 

あなたは、幾十にも張り巡らされたユーモアを駆使するためのヒントに、いくつ気づきだろうか。

 

今後のユーモア論においては、笑いの具体例を幾つも上げていき、最後に体系的にまとめるという数学的帰納法的手法を取ろうと思う。なんてったって私の中でもまだまとまっていないから。

 

次は東京の不動産屋。テーマはそうだね、「晩夏」にしましょうか。最近暑いですしね。

今日はこの辺で。

文責おがさわら(大阪、28歳)