俺はなんばんぼし

釣具屋と不動産屋の

第九回 「晩夏」

【農機具商からのお題 「晩夏」】
夏。
この季節にしか発生しないものといえば、蚊、冷やし中華、水着ギャル、逃げ水、塩分なんたら、花火かんたら、大仰な各地の最高気温ニュース、金鳥、西瓜、ビアガーデン、あほみてえなお盆ラッシュ、今年は冷夏だとかいいながらフタ開けてみれば猛暑ですみてえないい加減な気象報道、浴衣、ハロハロ(ミニストップ)、夏期講習、入道雲、ひまわり、夕立、蝉の声。なんてなもんだが、忘れちゃいけないのがTUBEだ、やっぱり。

TUBEには夏にしか出番がない。七夕みたいなもんだ。年に一度しか出番がないとは、ミュージシャンとしていかがなものか、という冷静な意見もあるものの、夏という舞台においてはTUBEは向かうところ敵なしだ。
ホーミタイ、夢とちゃうのかい、と夏の一瞬間に叫ぶこと、そこにTUBEにしかない美学がある。

「夏といえばTUBE」。
この方程式は改めて考えると、尋常ではない。
だってそうだろう、夏以外の季節、春や秋や冬に「この季節はこれしかない」と世間一般に認知されているミュージシャンがいるだろうか。いない。
そういう意味で、TUBEとは唯一無二の、一神教の神のような地位を築いている。
すごいぜ、TUBE。

思えば、夏という季節はなぜこうも特殊なのか。
晩夏という言葉があるが、この言葉の響きには晩春、晩秋、晩冬いずれにもない儚さ、名残惜しさ、淡い夢、恋々たるニュアンスがある。
夏が終わるからなんなのだ。
なんなのだ。
なんなのだ。
なんなのだ。
なんなのだ。
なんなのだ。
なんなのだ、と何度強がってみても、其処にそこはかとない慕情が残るという現実。実際。
蓮の花が水面に落ちて波紋が広がっていくような。

冷静に考えれば夏なんかに良いことはない。
虫が増える、湿度は増す、夏風邪というケッタイな病ははびこる、アイスは溶ける、プールは芋洗いだ、熱中症で必ず年寄りが仏になる、お化けは出る、地球温暖化を感じる、ひと夏の恋で後悔する若者が続出する、食べ物は腐る。
良いことなんかひとつもないじゃないか。はやく終われよ、夏。

それでも、それでもなお、夏という季節には魅せられる何かがある。のは自分だけだろうか。正味、魔性だ、魔物だ。
よく分からないが、恋に恋するみたいな得体の知れなさ、あらがうことのできない紫色の、赤色の、催淫的な事情が夏にはある。ビバ。

ありがちなことではあるが、熱帯気候区や寒帯気候区と違い、日本には明確で平穏な四季があり、四ツの季節の始まりと終わりを誰しもが毎年経験する。
ここにおいては「終わりを意識できる」ということが肝要であって、散り際、締め方に意義を於く精神構造が日本にはある。
だからこそ、「武士道とは、死ぬことに見つけたり」という葉隠の一文が生まれ、辻斬りされた太田道灌は「かかるとき、さこそ命の惜しからめ」という句に対して「かねてなき身と思い知らなば」と返句した。

終わりを意識し、最期を思い描いていること。その認識ができてはじめて、終末に至る道程を慈しむことができ、前向きに燃焼し尽くすことが可能となる。
「晩夏」という言葉には、そんなネガティブさとポジティブさが入り混じった、美的な矛盾がある。
矛盾は人間が人間たる証であって、そういうわけで「晩夏」という言葉は血脈や心の臓の音を感じる言葉だ。


きれいごとっぽい感じにしてしまい自分の堕落を痛感するので、堕落が好きなバンド、スピッツの「夏の魔物」でしめくくる。


夏の魔物
作詞作曲:草野正宗

古いアパートのベランダに立ち
僕を見下ろして少し笑った
生ぬるい風にたなびく白いシーツ
魚もいないどぶ川越えて
いくつも越えてゆく二人乗りで
折れそうな手でよろよろしてさ
追われるように
幼いだけの密かな掟の上で
君と見た夏の魔物に会いたかった

大粒の雨 すぐにあがるさ
長く伸びた影が溺れた頃
濡れた蜘蛛の巣が光ってた
泣いてるように
殺してしまえばいいとも思ったけれど
君に似た夏の魔物に会いたかった


次回は関西の農機具商の回です。
お題は「犬」でお願いします。