俺はなんばんぼし

釣具屋と不動産屋の

第59回「LUCY鑑賞/ふかかんの光/人間とはパララ」

「LUCY」という映画を見た。あらすじとしては、まず人間は生きているうちに脳みその5%だか10%だかしか使わずに個体としての生命を終えてゆく存在だ。ところがどっこい、ひょんなことから超人的能力を手に入れることになったルーシーは、脳みそが100%稼働する状態に到達することになる。

といったお話で、多少ネタバレになってしまうがルーシーは脳みその開眼に伴ってコンピュータに変貌し、最終的にはオーラというかあまねく存在する全体意思のようになってしまう。要は、ホモサピエンスという型から抜け出て、概念というか形而上の存在になるちゅうことなのだが、これは例えば手塚治虫火の鳥なんかにもそのイメージが明確に描かれていたと思う。

それらの到達点は常人の及ぶところではなく、確かに超人的なのだが、形態が一致しているという点で、人間の想像力の限界を感じてしまう。イメージ、概念となった存在はそれはそれでその微細に至っては想像のしようもないものだ。ただ、その結果が同様である、ということが少し残念というか、まさにその先、概念をなんとか越え出たその先に、真実真正の未知を10乗したような未知が待っているような気がしてならない。不可知、ではないが、不可感、とでもいえばいいのかどうか。けして感じられることのない感覚。
感じられないものを感じてみたいが、それは人間、または人間が感知できる存在であるうちは感じられないだろうし、もし感じられてしまったとしたら、その時はもう何ものになっているのだろうか。と思うと、体中に細かな穴があいて宇宙的な絶対零度の微風兼暴風が吹くような寒みを感じる。
人間の脳みそが備えるシナプスは、この宇宙の星の数よりも多いと聞く。だからといって、どうということもないけれども。

 

人間の創造・想像しうるものはすべて借り物であって、それゆえに人間は悲しいむなしい存在で、またある意味救われるべき存在なーのだ、ってマーク・トウェインが言ってたぜ@「人間とはなにか」岩波文庫

明日から師も走る。

 

BUNSEKI:FUDOSAN-YA