俺はなんばんぼし

釣具屋と不動産屋の

第73回「ホワイトライの使いどころ」

おいしいお店を教えあうのはよくある会話であろう。

おすすめのご飯屋さんを教えたり教えられたりする機会が最近多かった。

困るのが、教えてもらったお店がそこまで自分の舌に合わなかった時だ。

おいしいと教えられているからハードルが高くなっているのもあるだろう。どんだけうまいんだろうなっていう期待。

もちろんたいていの場合はまずい事なんてなく、ほどよくおいしい事のだが、おいしい!という感動がない場合がある。ありていに言えばこんなモンカナ、みたいなあいまいな感想を抱く。うん、おいしいね、とおいしい!には雲泥の差がある。いつだっておいしい!を期待してしまうのだ。

 

そんな微妙な感想の中、お店を教えてくれた相手からどうだった?と感想を求められる。

本音を言うか、ホワイトライを言うかだ。

本題はここである。

 

大体の場合、私はホワイトライを言ってきた。大したことないと思っていても、

ひどく感動したよ、

と言う。何故か。

自分が教えた立場だった場合、大したことがなかったと言われたときに落胆するからに他ならない。ちょっと落ち込んじゃうよね。だからホワイトライを言う。教えてくれた人にその落胆を感じて欲しくないからだ。

しかし、そんなに他人に気をつかってもしょうがないのではないか、という気疲れみたいなものを最近少々感じつつあった。

 

また、一方でズバッと本心を言う人も多い。自分の舌に合わない事を相手に伝える。これは相互の関係に気を置かない感じがしてグッドだし、ちょっとカッコいいなとも思う。

 

そこで、ズバッという相手には、自分もズバッと言ってみることにした。ズバッという人はそういう関係を求めているだろうし、自分もそういう人には気をつかわなくていいなと思ったからだ。

大したことなかった。自分の好みではないかな、みたいな。

すると、ことのほかその相手はショックそうな感じを出す人が多い。

難しい。

 

結局ホワイトライを言い続けたほうがいいような気がしている。

これは、料理を作ってもらった時とか、プレゼントをもらった時とかも同様の事が言える。善意に対してどう対処するか。

 

というか、味覚に感動することが最近ないことに気が付いた。結局、母親の料理とか、初めて食べて感動した店に勝てない様な気がしてしまっている。思い出補正なのかな。

 

 

文責:おがさわら(大阪、無職、31)