俺はなんばんぼし

釣具屋と不動産屋の

第83回「玉葱は剥いても玉葱」

最近の若者は・・・という小言は旧約聖書の時代からあるらしく、つまり人間が他者を評する時、その行為は玉葱を剝くようなものだ、と言えるかもしれない。古い皮をむいて新しい皮を露出させても、その新しい皮よりももっと若くみずみずしい皮が内側にはあるのであって、そのまた内にはよりヤングな皮が存在して、さらにその内側には・・・という感じで無限と思えるほどに新旧が連鎖していくのである。だから、おっさんたちにいびられ理解されない若者、あるいは若者に無視され理解されないおっさんなどは、そんなことを気にする必要はないと思う。 BY不動産屋さん

そういうわけで、新しいものはおおよそ常に惰弱とみなされがちだが、昨今のスマートホンはやっぱり脆いですよ、ホント。ホント須磨。

撮りたくもねえのにカメラアプリが立ち上がり、往年のWindows並みに反応が遅く、バッテリーが充電しながらも費消されてゆく。私の使っているスマートホンがそんな感じになってしまって、まったくスマートでない。スマートでないスマートホンは、ただのホンになるのだろうか? ならないのだろうか? ザッツザクエスチョン。YES OR NO?

世間はとかく二者択一でとらえがちであるが、そういうことはもうやめようよ。
と、今日の、ってもう昨日だ、昨日の毎日新聞だか読売新聞の記事を見て思った。
自民党内のとある検討会で、性的少数者に関する議論がなされたらしいが、記事いわく「性的少数者は精神異常者である」「そのような者たちは庇護するに値しない、なぜならきゃつらは社会を狂わせる存在だからだ」といった意味の意見が出たようである。それに対し、性的少数者の権利を主張する団体から「昨今の世界の動向がまったく分かっていない。差別を助長する発言、思想であり、糾弾に値する」とコメントしたそうだ。

ここにはあまりにも分かりやすい対立構造がある。ふたつに分けるのは簡単だが、その中間とか、ある時はこっちだけどまたある時はそっち側よ、みたいな状況にあるかもしれない人間のことを考えないのだろうか。対立構造に持ち込むのは、自らの正当性的ななにかを支持するのに、または支持してもらうのに非常に好都合である。それゆえ、非常に甘美である。

そして極めつけに情けがないのが、「性的少数者は精神異常者である」という見解だよね。ここにも、正常と異常という二項対立があたかも歴然と在るように捉えていることが表れている。そもそも正常な精神とはどういうものなんですかあ、とこの発言者に聞いても、肯綮に中るような返答があるとは思えない。この者にとって異常とは、自分と異なる者の思念すべてを指しているのだと思う。どの程度の気持を以て異常者であると断定したのかは分からないが、簡単に他を異常と言いきれてしまうその精神が、おれは悲しい。安易なのか自信家なのかなんなのか分からないが、そのような発言ができてしまう人物が国の方向を検討していることが、悲しくてならない。そして勝手に悲しがるおれの身勝手さに自己で嫌悪して、玉葱のように悲しみが終らない。

人はすべて正常でもあり異常でもあり、その境をたゆたうものだと思うがな。というのもまた、おれの勝手な意見なのだが。

話が著しく脱線した。おれのくたびれたスマートホンのことを書いているのだった。
それでそう、おれのスマートホンが頓珍漢になっているのだが、原因はストップウォッチにあったのかもしれない、という可能性が浮上したのです。

なぜその画面になったのか、たぶんいけなくなっているからなのだろうが、ふとスマートホンの画面を見るとストップウォッチのアプリが表示されていた。そして、9200h17m17.69sのタイム。どうやら、おれのスマートホンは9200時間もの時間をひたすらウォッチしていたらしい。9200時間とはおよそ383日である。1年以上もの間、ひたむきに機能し続けていたようである。
ストップウォッチのアプリがどの程度負荷をかけているのか分からないが、まあ多少は影響しているだろう。塵も積もればエベレスト。おそらく多大な負担をかけてしまってきたような気がしてならない。特になんの意味も意義もない時間を、こいつは計測し続けていた。疲れるのも無理はない話だ。

1年強ですら、9200時間を経過する。ということは、エルサレムで大工が人を導き始めてからだと、おおざっぱに計算して2000×9200=18,400,000時間(76万日)。ふーむ。この数字をどうとらえるかは人によるだろうが、現実感がないように思えるおれにとっては厖大な時間なのだろう。計測地点をもっと昔、現生人類や地球や宇宙のはじまりにその点を置いたとしたら、厖大は玉葱のようになってゆく。

知識人によれば、もっとも宇宙のはじまりからして混沌であったということだが、そこへ厖大に輪をかけた厖大さで時間がのしかかっているのであるから、これからも積み上がっていくのだから、混沌はさらなる混沌へ向かっていくと思われる。
だから、人間が矛盾している、自ら手に負えなくなっていっていることなど、当たり前のように思えてならないね。異常に異常を上塗りして生きていくしかないね。

今日は昨日や明日と同じように同じである。

時を重ねることはバグりに通じるのだと、これからもますます世界は人類はバグっていくのだろうと、壊れたスマートホンを手にして思うのであった。敬具

文責:不動産屋

 

P.S.
「時間」を考えるとき、いつも脳内に浮上するのは「永遠も半ばを過ぎて」、中島らもの著作である。内容があることはさておいて、このタイトルはいつ思い出しても唸らずにいられない。
「半ば」とは、「始まり」と「終わり」があってはじめて存在するものであり、「永遠」に当然「終わり」はなく、と同時に「始まり」もないわけなのだが、それなのに「半ば」はあるという。この屈折がたまらん。
ブラッドベリの「とうに夜半を過ぎて」からアイディアを得ているのだろうが、それにしても凄いタイトルだと思う。